朝日カルチャーセンター「万博から世紀末まで‐僕はこんな作品を見てきた。」メモ(後編)

前回のまとめ:幾原監督の自己形成に影響を与えた作品群の話を聞きに来たと思っていたら、握手会に参加していた…自分でも何を言っているのかわからないがなんちゃらかんちゃら。

 

前半に引き続き、FCイベントの様子をまとm…別にまとめてなかった。
例によって精度は微妙で、抜け漏れミス勘違い聞き間違いがあります。
あとで見出しをつけたいです。このブログはリアルタイムで進化を続けます。
がんばります。

 

ゲスト:幾原邦彦
司会進行:藤津亮太氏、上田麻由子氏(以下敬称略)

 

※実際のイベントでは、話に上がった各作品について、藤津さんの丁寧な解説がついていました。が、そこは参加者のみの特権ということで何卒。藤津さん、本当に良い仕事をありがとうございました!


2. 1970年代から1980年代へ

上田:幾原監督作品には、学園がよくでてきますよね。学園を舞台に選ぶ理由は、当時の生きづらさと関係していますか?

幾原:うーん、僕にとって、学校は居心地が悪い場所だったんです。中高はとくに。今思うと、空気を読めなかったからですね…。

上田:馴染めば生きられるけど、個性が埋もれてしまう…みたいな?

幾原:昔の学校と今の学校はちがうしね。80年代は荒れていたし。学校が荒れているといっても、昔は学生運動だったけど、当時は、校内暴力が話題になった時期だった。政治的にではなく。社会状況がややちがったし。男女雇用機会均等法とかもなかったし、大人になってからの選択肢も狭かった。最良でないルートは不幸で恐ろしいことだと教えこまれていたんです。
あとは、自分がメディアでどうこうできるとは思えなかったですね。今みたいに情報もないし、想像がつかない。メディア業界の状態もちがったしね。当時は政治的な意識がないとやれない世界だった。アウトロー的な気持ちがないと戦えない。
あまり詳しくはないですが、糸井重里の登場あたりで変わったんじゃないでしょうか?彼は、運動後の最初のメディアスター。それまでは各メディアが分離していましたが、ここからクロスメディアが始まっていったんです。

藤津:糸井さんのコピーライティングはインパクトがありましたか?

幾原:ありましたね。広告としての現代アートやグラフィックという言葉が登場しました。それまでは一握りの画家くらいしか食えなかったのが、広告ブームによって現代絵画が注目を集めるようになった。アングラがサブカルとして開花した時代。

上田:影響を受けた具体的な作品は?

幾原:当時、そういう情報はぴあやプレイガイドジャーナルから得ていたんです。すべてそこに書かれていたんですよ。そこで過去の映画やATG映画をみた。寺田修司なんかもそのタイミングでみて、衝撃を受けた。世間は偶然の好景気なのに、その流れとまったくちがっていたから。ビデオとかなかったから、10年前のものをライブラリとして見ていたんです。映画を見るときは、名画座や映画祭が頼りだった。そのぶん、映画1本の体験がものすごく大きかったんです。

藤津:一期一会でしたね。

幾原:「田園に死す」とかね。放映時は子供だったので、ついに見た!という感じだった。大学学園祭の映研でみたんですよ。誰も見てない映画を見てる、俺インテリ!俺すごい!みたいな。

藤津:埋まり具合はどうでした?

幾原:半分くらいかな。でも、高校生は俺くらいだ!って。評価前提の退屈なものが多い中で、全部口で言うスタイルのわかりやすい映画だった。結局、寺山氏は運動に興味があったのではなく、それを利用していたんじゃないかな。「書を捨てよ町へ出よう」は浅間前だから、運動は続いていくのかという雰囲気だったが、田園〜の時には、運動は過去のこととして追体験している。

藤津:しびれました?

幾原:運動の総括ですよね。運動のヒーローやメディアの虚構を描いている。田園〜の美術監督粟津潔氏)が自分の大学の先生だつたんです。書籍カバーの初代デザイナー(装丁家)。装丁家は、当時一番目立つグラフィックデザイナーでした。粟津さんがいなければ自分はなかったですね。
田園〜のテーマはわからなかったですが、映像としてはすごいと思いました。

上田:少女漫画は読まれましたか?

幾原:最初に読んだのは、「トーマの心臓萩尾望都)」か、「おでんぐつぐつ(弓月光)」のどちらか。当時は(70年代前半)は、「がきデカ山上たつひこ)」や「トイレット博士とりいかずよし)」が良かった。楳図かずおとか持ってきてクラスメイトの女の子と交換していたが、少女漫画はデリケートなことが書いてあるなと。「風と木の詩竹宮惠子)」とか読みました。
一時期同居していた年が近い叔父が、彼女の別冊マーガレットを持って帰っていて。「いつもぽけっとにショパン」を読んで衝撃を受けました。青年誌はなかった時代です。ビッグコミックくらいかな。少女漫画って恋愛だけかと思っていたら、母との確執の話だった。少女漫画の表現の幅広さのディープさ驚きました。少年漫画は殴り合いじゃないですか(笑)少年漫画は文学的だなあと。少女漫画を体験した時期は、今の感性をつくった時期でもありました。少女漫画を読まなかったら、今の自分はないですね。

上田:田園〜はテーマはよくわからなかったということでしたが、僕探しの話とも言えるかなと思います。こういったテーマが増えた時代ではないでしょうか?

幾原:寺山氏の映像(映画やドラマ)は、運動とズレていて、僕探しの話なんですよね。今思うと氏も浮いてたんだ。彼は、運動前後であまり変わっていないんです。一方で、運動直撃世代に僕探しを突きつけたのが、村上春樹では。
ノルウェイの森」までは、変な小説を書く人という印象でした。ファンタジーなのかなんなのか…。
村上春樹作品は読んでいましたが、はじめてちゃんと読んだのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。ライブラリとして読みましたね。よくわからなかったですが…。 評論くさいのであまり言いたくないんですが、彼も運動世代なのかも。あんなに熱狂していた自分たちはどうなったのか、あの熱狂は夢だったのか?では、今の自分と昔の自分と、どちらが夢だったのか?「羊をめぐる冒険」などは一緒に熱狂していた友を探している、それによって本当の自分を思い出すというストーリー。一方で、世界の終わり〜は、自分を探していく話ですね。そもそも、村上春樹作品は現世とあの世と往復するような話が多い。

上田:世界の終わり〜はいろいろな作品に影響したといわれますが、幾原監督も影響を受けましたか?

幾原:直接的な影響はあまりないんじゃないでしょうか。
ピングドラムのときは、ちょうど「アンダーグラウンド」が出た時期でした。これを読んだときは、衝撃を受けましたね。この作品では、自覚的にフィクションの力を試そうとしてる。村上さんが探ろうとしているのは、同時代感や共通認識を確認するという作業なんです。今までは無意識に行っていたであろう"読み手との共感"を獲得しにいった。自分たちとしては、運動は歴史でしかないんです。一方で、地下鉄サリン事件は、自分たちの世代がしたこと。終末ブームに超能力だとか言っていた自分たちにとって、政治運動にかわって新しく熱狂できるもの。そして、サブカルとして若い人の遊びだと思っていたもの。そうしたものが、とても深いドグマをもっていた。しかも、それがとても暗い形で世の中にでてしまった。後ろめたいことでした。
サブカルといって持て囃しておきながら、漫画やアニメといった、自分たちが好きでピュアだと思っていたものが汚されたような気がしたんです。しかも、それらについてメディアがまったく語らず、光を当てず、むしろ嫌悪を伴う語り方しかされない…そんな空気がでてきたのが気になっていました。

藤津:運動世代は自分達の熱を作品に反映してきたのに、95年のことは誰も語らなかった。

幾原:村上春樹はそこを語ろうとしたのがすごい。自分世代の幼児性から目を背けずに、それを語ろうとしている。読者に届けようとしている。

藤津:幾原監督自身は作品をつくるときに、そういう意識がないといけないといった感覚はありますか?

幾原:寺山修司の影響からか、そういうところはありますね。はじめは、寺山修司のいう「同時代体験」の意味がわからなかったんです。フィクションは同時代体験として消費されないと意味がないということが、村上春樹の登場によってわかるようになってきた。

上田:「コインロッカー・ベイビーズ」は?

幾原:村上春樹と比べると、村上龍のほうが現代的でエッジィ。だが、猛烈に古くなる。その時代には衝撃があるんですよ。
聞いたことなんですが、子供捨て自体は、戦後すでに社会問題だったそうです。けれど、コインロッカーは、それ自体が高度経済成長期を象徴する近代的な装置。そのなかに、いまだに子供が捨てられるというギャップの衝撃がありますね。

上田:幾原監督作品ファンとしては、双子モチーフが気になります。

幾原:本来同じ境遇である2人に変化が訪れて、立場が逆転していく話には惹かれますね。

上田:関係性が変わっていくという点では、「戦場のメリークリスマス」もそうですね。
幾原:この作品はすごいですよね。当時はよくわからなかったけど、大島渚は自分の世代を統括している。二・二六事件で死に損なったという設定は、大島渚の自己を反映しています。自分は運動で死ぬつもりだったが、死に損なった。が、デビッド・ボウイに一目惚れして、キスされて失神してしまう(笑)西洋文化に触れて翻弄されるというのもメタファですよね。夢のような作品ではあるけど、西洋の人からみるとどうなんでしょうね?デビッド・ボウイにキスされて失神する日本人とは…。まあ、大島渚がそれだけピュアで本気なんでしょうね。
この映画では西洋に対するあこがれがみられますが、これ以降の高度経済成長期からはその機運が消えていく。

上田:1年前にはブレードランナーが公開されました。

幾原:あの映画では、欧米が描く未来都市にソニーとかの広告が貼ってあって、欧米が日本を意識している!と驚きましたね。アメリカだとアジアは一括りですし。

藤津:原作(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?フィリップ・K・ディック)からは離れているので、チャイナタウンのイメージでしょうね。

幾原:高校生のとき、タイトルにひかれて原作を読んで衝撃を受けました。意味は分からないが、テクノロジの描写はすごいなと。でも、今のほうがすごさがわかる。インターネットの出現などを予言していますからね。

上田:共感ボックスなんかはおもしろい装置ですよね。

幾原:キリスト教的な考えですよね。そういうものでもないと気持ちが落ち着かないと。原罪を毎日意識しないといけないくらい不安定な社会なんです。
この社会では、人間とアンドロイドを区別するために、フォークト・カンプフテスト(感情移入テスト)をしています。人間とアンドロイドの差は、他者に感情移入するかどうかで判定されるんですね。
また、僕は映画が原作を超えたと思っている点があるんです。それは、原作では「人工物が人を超えることもあるかもね」という終わり方だが、映画では「人工物がヒトと同じところまで到達する」。
ディックの別作品では「日本はオリジナルのものをつくってこなかった。中国のものをつくり直してるが、それは本物を超えている。イミテーションがオリジナルを超えることもある」という話をしています。
では、我々は何を拠り所にすれば良いのか? インターネットやSNSでは、本物かどうかではなく、インパクトで選別されている。今、ディックの考えていた世界に近づいているのかもしれません。

◆3. まとめの質問

藤津:時代と表現者の関係について伺います。やはり、今日のお話を伺って、時代背景は表現者にとって意味があるなと。時代の中で書かれたものには思いの一部分が乗っていて、表現者はこの思いから逃れられず、また作品にとっても不可欠なのでしょうか?

幾原:最近は、さらにそうなっているのでは。バブルと高度経済成長期だった80年代にはアキラが出てきて、倒れないはずのビルがガンガン倒れていく。高度経済成長期に怪獣が暴れてビルが倒れるのは、あくまでファンタジーでした。それが、95年の事件や震災によって、みんなの意識が変わったんです。ビルの倒壊はリアルになった。
昔、自分たちがうんちくを語れるコミュニティに入るには、ぴあのような入り口が必要でしたが、今は同時変化的になってきています。
また、昔のエンタメは夢やドグマを吹き出すものでしたが、今はエンタメが自分たちの気持ちと近いところにあります。
今だと、壁なんかが頻出のテーマですよね。トランプ候補が壁を作ると言い出したり、とかイスラエル(の分離壁)なんかもそうです。そんななかで、アニメなんかのフィクションには、壁のビジュアルが登場している。これにはきっと意味がある。

藤津:ユリ熊嵐にも壁が出てきますよね。あの壁を入れたのは、ロジックから?感覚から?

幾原:あれは狙っていれました。乗ってかないとと思って(笑)

藤津:意味があるものだと。

幾原:壁があったほうがいいのか、ないほうがいいのか、その向こうからは何が入ってくるのか。
90年ごろから、ゲートという概念が流行りましたよね。異次元・異世界へつながるゲート。これは、グローバル化で物流により人々の意識が、変化していることを表現している。

藤津:現実をダイレクトに扱わずにメタファとして表現するには、アニメが向いているのかもしれませんね。

幾原:アニメはそういうことをしてきましたらからね。

藤津:時代性は意識しますか?

幾原:しますね。たとえば、ヤマトは戦争の追体験ですよね。一方で、見てる側には閉塞感があった。地球を救うという使命、生きている意味がある世界は、ロマンチックだった。
今ではいろいろな選択肢がありますが、ヤマトにおける"使命がある喜び"は伝わってきた。作り手である自分は、寂しいと思っていたんです。運動人をうらやましいと。人々と思いを共有していて、しかも政治の話をしてモテたなんて(笑)
それが高度経済成長期になって、いい服だのクルマだの、マニアックな自分には辛い時代だった(笑)テーマがなかったんです。破壊したいといったテーマが出てきたのが80~90年代あたりで、それが点火したのが95年。最近だと、SNSの登場で意識が変わってきてるなと思いますね。

藤津:じゃあピングドラムは正面からいったんですね。

幾原:メディアに干されたからね(笑)
真面目にやろうと。そのままだと、企画が通らなかったりしましたしね。

藤津:残響のテロル監督の渡辺信一郎さんは、運動への決着を意識されているようですね。背負ってるのかもしれない。

幾原:どうですかね。太陽を〜なんかは、古くなったかもね。95年のように、現実でカタストロフィがあると、夢における破壊が意味をもたなくなってしまう。
ピングドラムなんかは、311でかなり揺さぶられました。破壊衝動を扱うのが、不謹慎だと思った。商業作品として発表することに、いやらしさ、後ろめたさを覚えた。だから、ピングドラムは途中で大転換しています。当初は、もっとピカレスクな感じでした。負の破壊衝動のような、メディアが扱わないことに対するジレンマを払拭してやると思っていた…そんなタイミングで311があったんです。

藤津:それを聞いて納得しました。ピングドラムでは、途中で事件の扱いが変わって方向転換していますよね。


質疑応答

Q. 芸術関係に進みたいが(略)どういうことを意識していけばよいか?

幾原:自分からはアドバイスはできない。僕は、若い人の世界からはズレてしまっているんです。僕らはテレビの時代で、マス的に見せていっていました。でも、今は僕らが最先端ではない。そんななかで、これからどうしたら現代アートをみんなに見てもらえるようになるのかはわからないです。昔、糸井重里がテレビをうまくつかんだようなことができれば。

藤津:岡本太郎もそうですね。

幾原:これからテレビがどうなるかはわかりません。自分が意識しているけど実践できなくてジレンマを抱えていることがあって。人に言われたことなんですが、今までのメディアは、大々的に告知されて、上から降りてくるものだった。今は、そういうものも多いけど、むしろ下から上がってきています。その上がる方法や装置─今ならSNSなんかだと思いますが─それもいつまでからわからない。

藤津:時代を反映するものとしては幸福感も挙げられますが…そのへんはいかがでしょうか?

幾原:僕はイーストウッドが好きなんです。彼は、最新作(アメリカンスナイパー)で、ついに自分がやってきたことに気づいたんです。
彼はマカロニウェスタンから入って、刑事モノをやって、西部劇をやって…晩年になって、やっと、全部銃だと気づいたんですよ。彼の作品は、撃つか撃たないかに集約されてきた。その時代によってモチーフやドラマは変わりますが、中心にはいつも銃の有無や撃つかどうかがあるんです。
彼は、アメリカ人は銃を持つのが宿命だと思っているのかもしれません。アイデンティティの根幹としてね。絶対に銃を手放さないのがアメリカ人の原罪で、その運命をかいたのがアメリカンスナイパーではないでしょうか。銃規制に関する政治的なテーマは実は後付けで、アメリカ人としてのアイデンティティを追求した結果、アメリカンスナイパーに行き着いたのかも。

藤津:時代は、自分の外側だけではなく内側にもあるんですね。

幾原:世代のちがいはあるにせよ、僕らは日本に暮らしているということからは逃れられない。それがどういうことなのかを追求するのもテーマなのでは。戦中戦後も日本人であるということにはかわりはないんです。

Q. 岡本喜八監督の影響はありますか?また、ユリ熊嵐の「透明な嵐」といった独特の言語感覚はどこから来ましたか?

幾原:岡本さんはあんまり見てないかも。ライブラリとしては見ていますけどね。
また、セリフに関しては考えますね。

藤津:メモをとったり?

幾原:思いついたら、スマホのメモ帳に書くんです。早くすりつぶさないと、とかね。今のスマホには、2009年くらいからのものが残ってますね。

藤津:見直したりしますか?

幾原:見直すというか、癖ですね。

藤津:今回の企画について監督に話したら、影響を受けた作品リストのメモがパッと来たんですよ。

幾原:あれも、わざわざ書いたのではなく、メモを送ったんです。ネットをザッピングしながらメモするのがいいですね。

Q. 幾原監督作品が長く愛されるのはなぜでしょうか?

幾原:うーん、長く愛される作品を狙ってつくるのは無理ですね。高い評価があっても、次の作品がつくれないとね(笑)評論や評価は、あまり気にしたくないですね。その壇に乗ることで、足を取られたくない。ATG映画とか、評価のための映画がトラウマなのかも。もちろん、褒められたらすごくうれしいけどね。

藤津:普遍性は意識されますか?

幾原:わからないですね。意識してできるのかな…?そうとしかやれないので、癖なのかも。僕にラッキーがあるとしたら、その作品(のテーマ)が、たまたま今まで続いてる空気なんだろうな。
ライブラリ化された作品が求められるのは、昔の話だと思っていました。少なくとも僕らの世代は狙ってはできないですね。

藤津:時代を超えるかどうかは、読者次第かもしれないですね。

幾原:メディアの状況もありますね。ビデオとか配信とか、僕らの時代とはちがいますから。今は、リアルタイムのものと、ライブラリを並列で見ますよね。

 

わたしのメモは以上!以上です!

読破された方、イベントに参加された方、わたし、お疲れさまでした!


2016/04/25追記:岡本喜八監督のお名前に誤りがあったため、修正いたしました。失礼いたしました。