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朝日カルチャーセンター「僕はこんな作品を見てきた '80年代 バブルの喧噪と昭和の終わり」メモ

12/3に朝日カルチャーセンターで開講された講座に参加してきました。
タブレットでメモを取ったら首が壊れましたが、無事に内容をまとめました。

例によってノー知識、甘い校正ですが、今回はとくに聞き漏れもあったため一部カッコ付きです。
また、あくまでワタシ解釈であり、カギカッコ内=発言ではありません。読みやすさ優先の部分も多々あります。
ご容赦くださいまし。


◆はじめに

藤津さんからのごあいさつ
幾原「アニメ監督とかやってます幾原です。おふたりにいいところに導いていただければ」

藤津「前回は60~70年代しばりでしたが、いかがでした?」
幾原「あんまり…覚えてない…ほら、年取ると同じことを繰り返すから。。」

上田「80年代というと、幾原さんは高校生~大学生くらい?」
幾原「80年のときに高1ですね」

1. 1980年代前半とはどんな時代だったか

上田「80年代といえばバブルや高度経済成長といった時代ですが、幾原監督は京都にいらっしゃったんですよね。大学生活はいかがでした?

幾原「83年から京都にいました。風呂なし、トイレ共同のアパートで」

上田「幾原監督の華麗なイメージが……」

幾原「ワンルームマンションもあったけど、高かったんです。今だとテラスハウスみたいなのもあるけど、当時はそうでもなくて。ただ、アパート内での交流はありました。京大、同志社、あとは浪人生
京大生はサブカル系の人で、当時普及したてのビデオデッキもちでした。まだレンタルビデオ屋がない時代で、録画した映画を見てました。
見たい映画が見られるようになった時代でした。あくまでTVで放映されたものだけですが」
藤津「うちに入ったのは83年。当時、レンタルビデオ屋はあるにはありましたが、放映されたものを勝手に置いてたんです」
幾原「当時は風呂がない、トイレは共同、あとはマイケル・ジャクソン
ビデオデッキで洋楽のMTVを録画するのが流行って、そこからスリラーが大流行。
ベストヒットUSAなんかもあの時代です。僕からすると、昭和の侘しさ(?)とハリウッド感(華やかなイメージ)が混在している感じ。
昔は、音楽といえばイギリスがカッコよくて、アメリカのポップスはダサいイメージだった。そこにきて、MTVでハリウッド感とポップス感がマッチした。シナトラ、プレスリー、ビートルズ、ジャクソン…。風呂なしトイレ共同のアパートでWe are the worldを聞いてました」

上田「京都は学生にはいい街ですよね」
幾原「今がどうかはわからないけど、当時京都で暮らせたのはラッキーだった。京都でなければ、今の僕はないかも。京都は学生の街という印象。とくに、学生主体のイベントが毎日のようにあった」
上田「街全体が下北沢みたいな感じで」
幾原「学生がカルチャーしてるんだよね。それも学生運動の名残かもしれない。
とくに、芝居がいっぱい見られた。サークルも多かったし。いろいろと危険なものもあったんだけど、そうとも知らずにたくさん見に行きました。
当時は『アングラサイコー!』みたいな感じだったんですよね。マジだったという…
ただ、今思うと、見れて良かったです」

上田「大学の授業は…?」
幾原「真面目に受けてましたよ! 粟津さんの授業も。
ただ、非常勤(?)だったので、月一で適当に喋っていく感じで。ただ、寺山さんのことをいろいろ聞けたのはうれしかったですね」

上田「サークル活動は映画と演劇をされていたとのことで、やはり当時から見るだけでなく作るほうにご興味が?」
幾原「大学をやめる直前にヤンジャン(?)の特別賞をとって、10万円もらったんです。それが引越し代になって東京に。ちなみに、その賞のグランプリがスクリーミング・マッド・ジョージ

2.寺山修司の死と小劇場ブーム

上田「幾原監督が大学に入学された年に、寺山さんが死去されます」
幾原「大学でも話題に上がったし、文化人として、TVでも大きくとりあげられた」
上田「一時代が終わったという…」
幾原「そうですね…そんな感じだったのかな」

上田「その後、寺山さんに影響を受けた人が。多くの劇団を立ち上げていく。いわゆる小劇場ブームが起こります」
幾原「(資料に載っている劇団は)みんな見てますね。当時は女の子たちにも人気でした。
寺山さんのファンの子は、ゴスロリ系というか、人形っぽいというか、暗いのが好きという印象でした。ただ、遊眠社はちがったかな。バンギャっぽいのかな…?
これはあくまで想像だけど、運動が終わって形骸化した演劇が、文化的なものになったんだよね。それによって、若い人にとってエッジがないものになった。
寺山さんはエッジをきかせてたけど、この時代の劇団は、そういうことに対する反発なのかも。
たとえば、(寺山さんの時代は)休日にデートで映画は見るけど、演劇は見なかったんですよ。彼らはそこにメインカルチャーとしてアプローチしてるんじゃないかな」

上田「ラインナップを見ても、映画やTVに来た人が多いですよね」
幾原「運動系ではないですね。世代交代なんです。
しらけ世代”なんていいますが、運動してた世代からすると、そんな見え方なのかもしれないですね」

幾原「80年代になると、東京で仕事をしているんです。
それ以降の自分のインプットは、仕事の役に立つかどうかみたいな感じになってしまって。自分で”感じた!”というインプットは80年代ですね」

3. ATGと角川映画とTV局

3-1.ATGとの話題作など

藤津「ここで映画の話に。70年代から日本のメジャー映画がグズグズになっていくなかで、インディペンデント系が盛り上がっていきます」

幾原「京都は名画座が多かった。最寄りの映画館長が、またマニアックな人で。
ATGなんかはTVでもやらないので、映画をいつでも見られてうれしかったですね」
上田「京都だと、今でもATG系の映画館がありますよね。祇園会館とか」

幾原「そもそも、60年代から映画は傾いていくんです。
電波塔が立って、TVが盛り上がって…映画は追い詰められて衰退していく。
そうやって客が離れていくときでも客が来る映画というのは、学生がみたい映画なんです。ヌーベルバーグですね。
学生運動とリンクし、アジテーションするような。

ただ、70年代になると、それもうまくいかなくなっていって、そんななか出てきたのがATG。絞死刑なんて、絞首台がずっと映ってるような映画なんですが、そんなのがこんなのがヒットしたんです。
邦画が傾いてきたときに、ATGを利用して、運動を巻き込んだ興行をしたんですね」

「ただ、それも70年代前半まではよかったものの、日本の経済成長にしたがって、運動の熱とともに映画も冷えていって。そのなかで、映画をどうすればいいかと模索するわけ。
その流れの中に、ポストモダン的なテーマを探すんです。
運動の次に、自分たちは何で気持ちをつないで、連帯していくのか。
映画も演劇も、連帯するものを探していたんです」

藤津「上がっている作品のなかで、気になったものはありますか? リアルタイムのものだと、『ヒポクラテスたち』とか、『家族ゲーム』とか」

幾原「話題になりましたね。映画というジャンルが行き場をなくして困っていた。
この時代、YMOも出てきて、音楽が一気に垢抜けるんです。
そんな中で、映画はマスに向ける(=共感を獲得しようとする)ほど、その対象が戦中の貧困などになってしまい、湿っぽくなっちゃうんです。そして若い人から離れていく」
「『家族ゲーム』は受験戦争の話だよね。そんな戦争のなかで、気づいたら家族がこうなっていました、というような。受験戦争のディティールを表現しているんだけど、ドキュメンタリー的でエッジが効いている」

藤津「『ときめきに死す』も、不思議な話ですよね」

幾原「原作者(丸山健二氏)の作品をいくつか読んでますが、すべてテロの話なんですよ。運動の時代の人で、そういう作家なんです。
『ときめきに死す』では、テロリストの日常のディティールを描いてますよね。若い人にとって重いであろう情念をドライに表現している」

藤津「森田芳光監督だとどれがお好きですか?」
幾原「どれも好きですが、『39条』には驚きました」

藤津「そのほかでは、『人魚伝説』は?」
幾原「あの作品は、業界人みんな好きですよね。
政治的でアンタッチャブルなテーマゆえに、スポンサーもつきづらい。
女優さんのアクロバットも体当たりですごいし…。
今ならタイトルは『あまちゃん』だと思うんだけど」

藤津「自分の体をエサにするような、艶っぽいシーンも多いですね」

幾原「復讐という行為と海に潜っていく海女さんという仕事に、いい嫁感が…愛が深くて。
ただ、見た当時はパワーに圧倒されました。『太陽を盗んだ男』の続きっぽいかな」

藤津「『さらば箱舟』は寺山修司の遺作ですね」
幾原「マルケスって南米文学じゃないですか。当時、よくわからなかったんです。
南米は、植民地時代を経て、政治運動に翻弄されていく。日本人の歴史観とかなり違うんです」

藤津「ATG以外でも、他に気になった作品はありますか? 『台風クラブ』とか」
幾原「相米監督は、演劇的手法が得意ですよね。ワンシーン・ワンカットみたいな。
しかも、そこに情念が篭っているんです。
相米監督は『セーラー服と機関銃』がウルトラヒットして、若手映画監督の中心的な存在になりました」

3-2.80年代の角川映画(一部)

幾原「そんななかで、角川は唯一”当たっていた”邦画ですね。かつての映画はTVを敵にしていましたが、角川はTVスポットを撃ちまくって、TVを映画に巻き込んでいった。クロスメディアの始まりです」
藤井「映画のキャッチコピーが流行することも多かったですね」

幾原「今考えると、『犬神家の一族』から始まって、戦後の総括をしているのかな。
自分たちを何を失ったのか」

藤津「アニメはご覧になっていましたか?」
幾原「業界に入るまでは見てました。
アニメがあまり一般的でない時代で、『宇宙戦艦ヤマト』の登場で、みんな『アニメ』という言葉を知りました。
アニメというジャンルのスタートはここですね」
藤津「学生にとって趣味としてのアニメもですね」
幾原「それまでにもアニメはもちろんありましたが、若い人の心の中心にはなっていなかったように思うんです。ところが、食事中でもずっとヤマトを見ているような”ヤマトだけで生きている人”が登場する」

藤津「アニメ業界に行こうとは考えられていましたか?」
幾原「いやー…好きだったけど、やれると思っていなかったです。
田舎で、距離も合ったので」
藤津「大学でもですか?」
幾原「やはり距離があったので、ギリギリまで考えてなかったです」
藤津「ではなぜ東映に…」
幾原「本当にたまたまなんです。銭湯帰り、夜中までやっている本屋でキネマ旬報を立ち読みして。そこに出ていた求人に応募しただけ。
というか、大学をやめて東京に行きたくて。その口実ですね。
実は、大学生のときに就職説明会で、記録映画の会社に行ってみたんです。そうしたら、倍率が何百分の1と聞いて…心が折れた。
とにかく運が良かったんです」
藤津「東映だと2期なんですよね。1期に佐藤順一さんが」
幾原「偶然ですね…しかし、アニメ業界に行くとは思っていなかったなあ…」

3-3.TV局主導の映画

藤津「アニメ以外でも、他の映画はご覧になっていますか?」
幾原「この時代になると、メディアミックスが一般化しました。製作委員会のはしりですね。
そして、動物映画が大流行」

藤津「『南極物語』、『子猫物語』の前には『キタキツネ物語』もあって」
幾原「動物、とくに犬は当たる!となったんでしょうね。
当時、日本人の南極到達は一大イベントだったんです」
藤津「だけど、南極観測隊が帰るときになって、犬が置いて行かれてしまって。当時はメディアからバッシングされていました」
幾原「なぜバッシングされたかというと、”高度成長の犠牲”だったからなんです。成長の裏では、こんな残酷なことが起きていたなんて…自分たちは何か見失っているのではと。
ただ、いざ迎えに行ってみたら2匹生きていて、今度は絶賛の嵐。
そんななかで、当時大人気の高倉健さんに犬を加えれば、SWも超える!と。
実際、もののけ姫に抜かれるまでは邦画で1位でした」

幾原「時代的に、TVというメディアは60~70年代で実験をしてきたんです。
ただ、その人たちは”途中から”TVが登場した人たち。
80年代になると、はじめからTVがあった層が現れました。
それが日本の経済状況とリンクしていて、結果的に、日本は世界でも例がないくらいTVがウケた国になりました」
藤津「民放の局数も多いですからね。ちなみに、学生時代TVはご覧に?」
幾原「あんまり見てなかったですね。大学の友だちと遊ぶほうが楽しかったし。
高校時代が、アニメも含めていろいろ見てました」

4.マンガや小説

上田「前回の講義でもマンガや小説について伺いましたが、そのときにあまり聞けなかったよしもとばななさんについて。よしもとばなな作品の衝撃とは?」
幾原「ディティールですね。ちょっとシュールで、SFで。その表現が少女漫画的なんです」
上田「どんなポイントが良かったんでしょうか?」
幾原「当時、少年漫画では”心の機敏”を扱ってなかったと思うんです。
少女漫画出身のあだち充さんがヒットするまでかな。
それまでは『あしたのジョー』のような、スポ根というか番長というか…。
あしたのジョー』は好きですが、少年漫画はダサいというイメージがあって。

岩館さんの作品なんかは、劇的な話ではないけど、ディテールがリアルで。
美しいものやそれが壊される瞬間を描いているんです。
そこはよしもとばななさんも同じですね。

村上春樹もそうですが、あくまで男性なので。
よしもとばななさんは女性ならではのディテールですね」
上田「ディテールというのは…」
幾原「心の中の表し方ですね。
『キッチン』であれば、性同一障害を彩りであり、美しいものとして繊細に表現することが新しかった」
上田「それが自分に届いていく」
幾原「『アオイホノオ』でいう俺はわかる感!ですね。そんな上からじゃないですが…」
上田「よしもとばななさんは”あなたに届く作品”と言われていますね。
それは、運動などではなく、家族の話だからかもしれません」
幾原「文学的でもあり、少女漫画的でもありますね。
むしろ、僕は文学の意味はそこにあると思っている。
脈々とつづく、若い人の心の中を描いていく流れ」
上田「青春モノですかね」
幾原「よしもとばななさんは、当時漫画的だとも言われていますね」
上田「今ではあまりないような、広い世代で読まれた小説でした」

幾原「ポストモダンを探した時代でした。
村上龍なんかは、アナーキーでかっこいい話でした。
栄えた時代の喧騒なかで、革命を起こしてやる! みたいな」
上田「『TUGUMI』や『キッチン』では永遠の少女的な存在が出てきます。こういう存在は、村上龍さんにはいないですね」
幾原「いないですね。
村上春樹にはいるけど…男性の妄想だから」

上田「前回の講座で、村上春樹作品はほとんど読まれているとのことでしたが、よしもとばななさんの作品もですか?」
幾原「全部じゃないけど読んでるよ。『白河夜船』や『とかげ』…短編が多いかな」

上田「新しい作家はいかがでしょう?」
幾原「最近だと『コンビニ人間』の作者の村田沙耶香さんの『消滅世界』。あれはリアルで怖かったなあ」
上田「そうですか?」
幾原「あれって要するに、”人生ずっとおそ松さん大好きでもいいよね!”って話ですよね?」
上田「樹璃さんみたいな人も出てきます」
幾原「誰かに勧められて読んだんだよね」
上田「私です!」
幾原「そうだった。良かったよ、恐ろしいけど……」

上田「村上龍さんについても伺います。当時はやはりエッジーなところに衝撃を受けられました?」
幾原「村上龍は時代を意識していて…こう言っては失礼だけど、ライブラリとして読んだらわからないんじゃないかな」
藤津「当時性が強いですね」
幾原「それを意識しているからね。その時に読むと、すごく良いんだけど…『半島を出よ』とか。アナーキズムを感じるよね」
藤津「体制なんか蹴っ飛ばしてやる、というような」
幾原「若い人へのアジテーションがあって良かったけど、人によっては合わないんじゃないかな」

藤津「『69 sixty nine』のあとがきでも、アナーキズムを肯定していました」
幾原「”俺はまだ運動をやめてないぜ、若いやつにもアジテーションしていっちょやってやろうぜ”といった檄ですよね。
時代のトピックの突き方がうまいんです」

藤津「一番インパクトがあったのは?」
幾原「(?)と『コインロッカー・ベイビーズ』ですね」
藤津「それもトピックですね」
幾原「(話を要約しつつ)SFで、アナーキーで、革命を起こしてやる…という」
藤津「そう要約されると、めっちゃ『AKIRA』ですね…。
後のいろいろな作品に影響を与えていますね」

幾原「『愛と幻想のファシズム』なんかも、大人から既得権取り戻すという…やはり、運動時代の夢なんですよ」
藤津「リアリズムすぎず、SFっぽいのもポイントですよね」
幾原「ご本人は言わないだろうけど…若い人のルサンチマンを刺激しているんですよね」
幾原「要するに、世間の流れとは真逆のアプローチ。乗れない人たちが支持しているんじゃないかな」
藤津「運動が消えていくなかで、1人で運動を続けている」
幾原「ご本人は言わないだろうけどね。勝手な想像だけど、言いたくないのかも」

幾原「若い人はピンと来ないかもしれないけど、石原慎太郎は大人を仮想敵として描いた初めての人なんです。モラルハザードというか、大人社会への宣戦布告というか。
メディアでの振る舞いも、その名残なんじゃないかな。メディアは騒いだもん勝ちってわかってる。
それは村上龍もそうなんだよね。
そして、この"もっとぶってくれ!"には僕も影響を受けているかも」
藤津「アニメ監督のグラビアとか」
幾原「物議を醸したいんですよ」

5. まとめの質問

藤津「今日は80年代についていろいろと伺ってきましたが、今の幾原監督からみて、80年代から変わったこと、逆に続いていることはなんですか?」
幾原「メディアが完成したのが80年代で、その後はずっとカスタマイズだと思っているんです」

藤津「TVのカタチとか」
幾原「想像になるけど、60〜70年代は、カルチャーが政治に支配されていたんじゃないかな。吉本隆明なんかは、反体制でありメディアのヒーローだった。そこから、糸井(重里)さんが現れて、中心になっていく」

藤津「突然ですが、昭和が終わった日を覚えていますか?」
幾原「覚えてます。東映で働いていた頃で。先輩が『ひみつのアッコちゃん』で演出デビューするってことでTVを見ていたら、最初の5分だけ流れたところで崩御のニュースに変わって……」
藤津「声優さんでもありました。『キテレツ大百科』で、ゲストキャラに出演すると言っていた方がいらしたんですが、放送が飛んで…しかも時事ネタだったので、お蔵入りに。やはり影響は大きかったですね。
幾原監督は、昭和の終わりについて思うところはありますか? 混乱した時代でしたが……」
幾原「昭和…あんまり昭和って感じがないなあ…」

藤津「昭和は、昭和XX年西暦(19XX)年と
表記することが多かったですが、平成は西暦が前に来ることがほとんどになった気がします。
戦中から始まる昭和のストーリーが終わりました」
幾原「昭和は3段階に分けられるけど、僕らはその最後の世代ですね」
藤津「ベルリンの壁も崩壊し、 冷戦終了で時代が変わっていきます」

藤津「幾原監督は、80年代に何が変わって何を得ましたか?」
幾原「いろんなメディアが衰退しては新しく登場して、作り手がポストモダンを求めた時代だった。運動というマスへのテーマがなくなったからね。
戦後の総括をしてはいるけど、若い人はテーマが見つけられないから、模索しながらいろいろな実験が行われた。それを見られたのは良かったかな。
当時の状況は、今と似てるんです。
今は、ネットが登場して、スマホのアプリなんかも出て、装置がリセットされた状態。そこから若い人のフロンティアが生まれていくんじゃないかな。これからいろんなヒーローが出てくるはず。

今思うと、80年代にこんなものは小説じゃない、映画じゃない、カルチャーじゃないって言われながらも、残った人がカルチャーの中心になった。いろんな人が登場して批判され、淘汰される時代。
映像も、装置によってその体験が変わってきている。TVなら、ドキュメンタリー、ドラマ、ニュース…映像を作る側も、装置やデバイスの変化で変わっていく」
藤津「変化の中でテーマを見つけていく」

幾原「カンブリア紀のように、爆発的に変化が起きている。スマホにしても、スマホの中だけでなく、その外側に広がっていく変化があるとおもしろい。僕は、映像には世界を変える装置であってほしい」

◆質疑応答

Q1. 80年代というと、お立ち台やジュリアナのようにバブリーなイメージがあるが、そのあたりと運動からのカルチャーの流れは分断されていたのか?

藤津「あれは90年代ですね」
幾原「ディスコブームは70年代後半にありました。といっても、僕はお立ち台に乗れず、端っこでキーッ!ってやってるタイプで…。

当時の風俗というか、たとえばクリスマスはカップルで高級ホテルに…みたいな流れには乗れなかったですね」
藤津「そのキャッチコピーは83年だそうですよ」
幾原「良い悪いではなく、運動の歌からJ-POPになっていって。そのはじまりが吉田拓郎なんです。運動は連帯を歌ったもので、J-POPは彼氏彼女の歌。その中間が『神田川』。逆に、J-POPの流れの究極はユーミンユーミンも好きだし流れには乗りたかったけど…」
上田「幾原監督は、流行っているものにはアンチに構えてしまうタイプ…?」
幾原「乗りたいんです! 流行っているもの大好きですよ!
90年代だと、グルーブや渋谷系小室哲哉なんかかな。僕はニューウェイブが好きだったので、ズレていたかも。

寺山修司やJ.S.シーザーの影響かも。YMOみたいなテクノと、寺山修司が合体しないかって妄想していて。その果てが初音ミクだと思っているんだけど」

幾原「80年代は本当に忙しくて、きらびやかななかに混ざりたい、でも忙しいと思っているうちに、気づいたらその流れが終わっていて。努力はしてたんですよ」

Q2. 80年代に育まれた価値観は、幾原監督の作品にもいきていますか?

幾原「僕の人生で印象深いイベントは、万博とTVの普及。TVが変化するのを見てきた。
若い人がチャレンジするのを目撃して、世間の喧噪に乗った人もそうでない人もいて、それらを通り過ぎて今思うのは、自分の中に残っているものと、そうでないものがあるんですよね。世間では騒がれたけどピンと来なかったものがある一方で、今も惹きつけられるものもある。そういったものへのファンとしての憧れがありますね。その衝動が僕のものづくりの中心にあり、支えでもあります」
藤津「今日挙がったなかだと、どの作品ですか?」
幾原「TVや映画ならポストモダンかな。
森田監督は、成り立ちや背景が軽やかで、その軽やかさが批判されることも多いけど、その批判までかっこいい」

Q3. 80年代と今とで、アニメの作り方に違いはあるか? 制作面、企画面など

藤津「以前はスポンサーが玩具屋でしたね」
幾原「東映は厳しかった…厳しいところにいたのは良かったと思います」
藤津「厳しくて硬いのに、型破りな演出家ばっかり」
幾原「採用で変なやつを採ろうとするんでせよ。アカデミックな方向で。
以前聞いたんですが、東映は"幅"で採ってるらしいです。僕はどの幅だったのか……」

藤津「スポンサーの違いは大きいですね」
幾原「スポンサーからのオーダーはすごかった。正直、早く他の仕事を見つけてやめいと思ってました。自分には向いてないと」

藤津「製作委員会方式になると、TV局も深く関わってくるようになりました」
幾原「そこは変わりましたね。僕たちの話を聞くのが人たちが90年代から現れたと感じました。世代的なものかもしれない。
メディアもまた変化していて、たとえばテレビ東京はローカル放送でBSもネット配信もなくレンタルだけだったから、それがかえって製作委員会方式を支えました。それで若い人にも企画や制作のチャンスが来ました。それが90年代半ばかな」

幾原「制作の話をすると、作り方自体はセル時代はほとんど変化していません。ただし、
00年代のデジタル化(SD化、HD化)は劇的でした。30年分くらいの変化が一気に起きたと思います。
幾原「実は今、映像デバイスと共に、作り手の環境もものすごい勢いで変化しているんです。デバイスの変化なんか、2、3年先が想像できない」

幾原「今年は、業界人から見ると『君の名は。』『シンゴジラ』『この世界の片隅に』といった、TV局が中心でない作品のヒットが続いています。
これは、視聴者が(作品を)享受するときのフィーリングが変わってきているからのような気がします。ポップカルチャーの意味は、つながることですから」

幾原「現在、かつてないほどパッケージビジネスは困窮しています。作品を作るためのお金が集まらないので、これからの人はより困難になるかもしれない。
一方で、音楽で言うと、CDは売れなくても、みんな音楽自体はかつてないほどよく聞いている。そういう意味で、表現したい人にとっては良い時代だと思います」