コミックマーケット91に参加します

サークル「羽二重庵」は12/31(土)に開催されるコミックマーケット91に参加します。
スペースは東エ34-b。防寒対策が大事ですね。

頒布物詳細は以下のとおり(12/15更新)。

 

◆頒布物概要

秀吉寿司2(新刊)
秀吉寿司(既刊)
※どちらもモノクロ20p・コピー本


◆お値段

100円(既刊新刊いずれも)


◆表紙と見本

 表紙

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見本

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既刊の情報はこちら:

huvchie.hatenablog.com


◆内容

引き続き秀吉が寿司を握ります。
2期のメインキャラはほぼ出てきます。
各話のプチ感想つき。
2では出前を解禁しました。


◆その他

当日は寿司化した武将カードなどを描いたりしていますのでご自由にお持ちください。
普通の武将カードもあります。
要するに、気ままに落書きしています。


サークル参加は初めてなので緊張しますね。

不慣れな点もあるかと思いますが、当日はよろしくお願いいたします~。

朝日カルチャーセンター「僕はこんな作品を見てきた '80年代 バブルの喧噪と昭和の終わり」メモ

12/3に朝日カルチャーセンターで開講された講座に参加してきました。
タブレットでメモを取ったら首が壊れましたが、無事に内容をまとめました。

例によってノー知識、甘い校正ですが、今回はとくに聞き漏れもあったため一部カッコ付きです。
また、あくまでワタシ解釈であり、カギカッコ内=発言ではありません。読みやすさ優先の部分も多々あります。
ご容赦くださいまし。


◆はじめに

藤津さんからのごあいさつ
幾原「アニメ監督とかやってます幾原です。おふたりにいいところに導いていただければ」

藤津「前回は60~70年代しばりでしたが、いかがでした?」
幾原「あんまり…覚えてない…ほら、年取ると同じことを繰り返すから。。」

上田「80年代というと、幾原さんは高校生~大学生くらい?」
幾原「80年のときに高1ですね」

1. 1980年代前半とはどんな時代だったか

上田「80年代といえばバブルや高度経済成長といった時代ですが、幾原監督は京都にいらっしゃったんですよね。大学生活はいかがでした?

幾原「83年から京都にいました。風呂なし、トイレ共同のアパートで」

上田「幾原監督の華麗なイメージが……」

幾原「ワンルームマンションもあったけど、高かったんです。今だとテラスハウスみたいなのもあるけど、当時はそうでもなくて。ただ、アパート内での交流はありました。京大、同志社、あとは浪人生
京大生はサブカル系の人で、当時普及したてのビデオデッキもちでした。まだレンタルビデオ屋がない時代で、録画した映画を見てました。
見たい映画が見られるようになった時代でした。あくまでTVで放映されたものだけですが」
藤津「うちに入ったのは83年。当時、レンタルビデオ屋はあるにはありましたが、放映されたものを勝手に置いてたんです」
幾原「当時は風呂がない、トイレは共同、あとはマイケル・ジャクソン
ビデオデッキで洋楽のMTVを録画するのが流行って、そこからスリラーが大流行。
ベストヒットUSAなんかもあの時代です。僕からすると、昭和の侘しさ(?)とハリウッド感(華やかなイメージ)が混在している感じ。
昔は、音楽といえばイギリスがカッコよくて、アメリカのポップスはダサいイメージだった。そこにきて、MTVでハリウッド感とポップス感がマッチした。シナトラ、プレスリー、ビートルズ、ジャクソン…。風呂なしトイレ共同のアパートでWe are the worldを聞いてました」

上田「京都は学生にはいい街ですよね」
幾原「今がどうかはわからないけど、当時京都で暮らせたのはラッキーだった。京都でなければ、今の僕はないかも。京都は学生の街という印象。とくに、学生主体のイベントが毎日のようにあった」
上田「街全体が下北沢みたいな感じで」
幾原「学生がカルチャーしてるんだよね。それも学生運動の名残かもしれない。
とくに、芝居がいっぱい見られた。サークルも多かったし。いろいろと危険なものもあったんだけど、そうとも知らずにたくさん見に行きました。
当時は『アングラサイコー!』みたいな感じだったんですよね。マジだったという…
ただ、今思うと、見れて良かったです」

上田「大学の授業は…?」
幾原「真面目に受けてましたよ! 粟津さんの授業も。
ただ、非常勤(?)だったので、月一で適当に喋っていく感じで。ただ、寺山さんのことをいろいろ聞けたのはうれしかったですね」

上田「サークル活動は映画と演劇をされていたとのことで、やはり当時から見るだけでなく作るほうにご興味が?」
幾原「大学をやめる直前にヤンジャン(?)の特別賞をとって、10万円もらったんです。それが引越し代になって東京に。ちなみに、その賞のグランプリがスクリーミング・マッド・ジョージ

2.寺山修司の死と小劇場ブーム

上田「幾原監督が大学に入学された年に、寺山さんが死去されます」
幾原「大学でも話題に上がったし、文化人として、TVでも大きくとりあげられた」
上田「一時代が終わったという…」
幾原「そうですね…そんな感じだったのかな」

上田「その後、寺山さんに影響を受けた人が。多くの劇団を立ち上げていく。いわゆる小劇場ブームが起こります」
幾原「(資料に載っている劇団は)みんな見てますね。当時は女の子たちにも人気でした。
寺山さんのファンの子は、ゴスロリ系というか、人形っぽいというか、暗いのが好きという印象でした。ただ、遊眠社はちがったかな。バンギャっぽいのかな…?
これはあくまで想像だけど、運動が終わって形骸化した演劇が、文化的なものになったんだよね。それによって、若い人にとってエッジがないものになった。
寺山さんはエッジをきかせてたけど、この時代の劇団は、そういうことに対する反発なのかも。
たとえば、(寺山さんの時代は)休日にデートで映画は見るけど、演劇は見なかったんですよ。彼らはそこにメインカルチャーとしてアプローチしてるんじゃないかな」

上田「ラインナップを見ても、映画やTVに来た人が多いですよね」
幾原「運動系ではないですね。世代交代なんです。
しらけ世代”なんていいますが、運動してた世代からすると、そんな見え方なのかもしれないですね」

幾原「80年代になると、東京で仕事をしているんです。
それ以降の自分のインプットは、仕事の役に立つかどうかみたいな感じになってしまって。自分で”感じた!”というインプットは80年代ですね」

3. ATGと角川映画とTV局

3-1.ATGとの話題作など

藤津「ここで映画の話に。70年代から日本のメジャー映画がグズグズになっていくなかで、インディペンデント系が盛り上がっていきます」

幾原「京都は名画座が多かった。最寄りの映画館長が、またマニアックな人で。
ATGなんかはTVでもやらないので、映画をいつでも見られてうれしかったですね」
上田「京都だと、今でもATG系の映画館がありますよね。祇園会館とか」

幾原「そもそも、60年代から映画は傾いていくんです。
電波塔が立って、TVが盛り上がって…映画は追い詰められて衰退していく。
そうやって客が離れていくときでも客が来る映画というのは、学生がみたい映画なんです。ヌーベルバーグですね。
学生運動とリンクし、アジテーションするような。

ただ、70年代になると、それもうまくいかなくなっていって、そんななか出てきたのがATG。絞死刑なんて、絞首台がずっと映ってるような映画なんですが、そんなのがこんなのがヒットしたんです。
邦画が傾いてきたときに、ATGを利用して、運動を巻き込んだ興行をしたんですね」

「ただ、それも70年代前半まではよかったものの、日本の経済成長にしたがって、運動の熱とともに映画も冷えていって。そのなかで、映画をどうすればいいかと模索するわけ。
その流れの中に、ポストモダン的なテーマを探すんです。
運動の次に、自分たちは何で気持ちをつないで、連帯していくのか。
映画も演劇も、連帯するものを探していたんです」

藤津「上がっている作品のなかで、気になったものはありますか? リアルタイムのものだと、『ヒポクラテスたち』とか、『家族ゲーム』とか」

幾原「話題になりましたね。映画というジャンルが行き場をなくして困っていた。
この時代、YMOも出てきて、音楽が一気に垢抜けるんです。
そんな中で、映画はマスに向ける(=共感を獲得しようとする)ほど、その対象が戦中の貧困などになってしまい、湿っぽくなっちゃうんです。そして若い人から離れていく」
「『家族ゲーム』は受験戦争の話だよね。そんな戦争のなかで、気づいたら家族がこうなっていました、というような。受験戦争のディティールを表現しているんだけど、ドキュメンタリー的でエッジが効いている」

藤津「『ときめきに死す』も、不思議な話ですよね」

幾原「原作者(丸山健二氏)の作品をいくつか読んでますが、すべてテロの話なんですよ。運動の時代の人で、そういう作家なんです。
『ときめきに死す』では、テロリストの日常のディティールを描いてますよね。若い人にとって重いであろう情念をドライに表現している」

藤津「森田芳光監督だとどれがお好きですか?」
幾原「どれも好きですが、『39条』には驚きました」

藤津「そのほかでは、『人魚伝説』は?」
幾原「あの作品は、業界人みんな好きですよね。
政治的でアンタッチャブルなテーマゆえに、スポンサーもつきづらい。
女優さんのアクロバットも体当たりですごいし…。
今ならタイトルは『あまちゃん』だと思うんだけど」

藤津「自分の体をエサにするような、艶っぽいシーンも多いですね」

幾原「復讐という行為と海に潜っていく海女さんという仕事に、いい嫁感が…愛が深くて。
ただ、見た当時はパワーに圧倒されました。『太陽を盗んだ男』の続きっぽいかな」

藤津「『さらば箱舟』は寺山修司の遺作ですね」
幾原「マルケスって南米文学じゃないですか。当時、よくわからなかったんです。
南米は、植民地時代を経て、政治運動に翻弄されていく。日本人の歴史観とかなり違うんです」

藤津「ATG以外でも、他に気になった作品はありますか? 『台風クラブ』とか」
幾原「相米監督は、演劇的手法が得意ですよね。ワンシーン・ワンカットみたいな。
しかも、そこに情念が篭っているんです。
相米監督は『セーラー服と機関銃』がウルトラヒットして、若手映画監督の中心的な存在になりました」

3-2.80年代の角川映画(一部)

幾原「そんななかで、角川は唯一”当たっていた”邦画ですね。かつての映画はTVを敵にしていましたが、角川はTVスポットを撃ちまくって、TVを映画に巻き込んでいった。クロスメディアの始まりです」
藤井「映画のキャッチコピーが流行することも多かったですね」

幾原「今考えると、『犬神家の一族』から始まって、戦後の総括をしているのかな。
自分たちを何を失ったのか」

藤津「アニメはご覧になっていましたか?」
幾原「業界に入るまでは見てました。
アニメがあまり一般的でない時代で、『宇宙戦艦ヤマト』の登場で、みんな『アニメ』という言葉を知りました。
アニメというジャンルのスタートはここですね」
藤津「学生にとって趣味としてのアニメもですね」
幾原「それまでにもアニメはもちろんありましたが、若い人の心の中心にはなっていなかったように思うんです。ところが、食事中でもずっとヤマトを見ているような”ヤマトだけで生きている人”が登場する」

藤津「アニメ業界に行こうとは考えられていましたか?」
幾原「いやー…好きだったけど、やれると思っていなかったです。
田舎で、距離も合ったので」
藤津「大学でもですか?」
幾原「やはり距離があったので、ギリギリまで考えてなかったです」
藤津「ではなぜ東映に…」
幾原「本当にたまたまなんです。銭湯帰り、夜中までやっている本屋でキネマ旬報を立ち読みして。そこに出ていた求人に応募しただけ。
というか、大学をやめて東京に行きたくて。その口実ですね。
実は、大学生のときに就職説明会で、記録映画の会社に行ってみたんです。そうしたら、倍率が何百分の1と聞いて…心が折れた。
とにかく運が良かったんです」
藤津「東映だと2期なんですよね。1期に佐藤順一さんが」
幾原「偶然ですね…しかし、アニメ業界に行くとは思っていなかったなあ…」

3-3.TV局主導の映画

藤津「アニメ以外でも、他の映画はご覧になっていますか?」
幾原「この時代になると、メディアミックスが一般化しました。製作委員会のはしりですね。
そして、動物映画が大流行」

藤津「『南極物語』、『子猫物語』の前には『キタキツネ物語』もあって」
幾原「動物、とくに犬は当たる!となったんでしょうね。
当時、日本人の南極到達は一大イベントだったんです」
藤津「だけど、南極観測隊が帰るときになって、犬が置いて行かれてしまって。当時はメディアからバッシングされていました」
幾原「なぜバッシングされたかというと、”高度成長の犠牲”だったからなんです。成長の裏では、こんな残酷なことが起きていたなんて…自分たちは何か見失っているのではと。
ただ、いざ迎えに行ってみたら2匹生きていて、今度は絶賛の嵐。
そんななかで、当時大人気の高倉健さんに犬を加えれば、SWも超える!と。
実際、もののけ姫に抜かれるまでは邦画で1位でした」

幾原「時代的に、TVというメディアは60~70年代で実験をしてきたんです。
ただ、その人たちは”途中から”TVが登場した人たち。
80年代になると、はじめからTVがあった層が現れました。
それが日本の経済状況とリンクしていて、結果的に、日本は世界でも例がないくらいTVがウケた国になりました」
藤津「民放の局数も多いですからね。ちなみに、学生時代TVはご覧に?」
幾原「あんまり見てなかったですね。大学の友だちと遊ぶほうが楽しかったし。
高校時代が、アニメも含めていろいろ見てました」

4.マンガや小説

上田「前回の講義でもマンガや小説について伺いましたが、そのときにあまり聞けなかったよしもとばななさんについて。よしもとばなな作品の衝撃とは?」
幾原「ディティールですね。ちょっとシュールで、SFで。その表現が少女漫画的なんです」
上田「どんなポイントが良かったんでしょうか?」
幾原「当時、少年漫画では”心の機敏”を扱ってなかったと思うんです。
少女漫画出身のあだち充さんがヒットするまでかな。
それまでは『あしたのジョー』のような、スポ根というか番長というか…。
あしたのジョー』は好きですが、少年漫画はダサいというイメージがあって。

岩館さんの作品なんかは、劇的な話ではないけど、ディテールがリアルで。
美しいものやそれが壊される瞬間を描いているんです。
そこはよしもとばななさんも同じですね。

村上春樹もそうですが、あくまで男性なので。
よしもとばななさんは女性ならではのディテールですね」
上田「ディテールというのは…」
幾原「心の中の表し方ですね。
『キッチン』であれば、性同一障害を彩りであり、美しいものとして繊細に表現することが新しかった」
上田「それが自分に届いていく」
幾原「『アオイホノオ』でいう俺はわかる感!ですね。そんな上からじゃないですが…」
上田「よしもとばななさんは”あなたに届く作品”と言われていますね。
それは、運動などではなく、家族の話だからかもしれません」
幾原「文学的でもあり、少女漫画的でもありますね。
むしろ、僕は文学の意味はそこにあると思っている。
脈々とつづく、若い人の心の中を描いていく流れ」
上田「青春モノですかね」
幾原「よしもとばななさんは、当時漫画的だとも言われていますね」
上田「今ではあまりないような、広い世代で読まれた小説でした」

幾原「ポストモダンを探した時代でした。
村上龍なんかは、アナーキーでかっこいい話でした。
栄えた時代の喧騒なかで、革命を起こしてやる! みたいな」
上田「『TUGUMI』や『キッチン』では永遠の少女的な存在が出てきます。こういう存在は、村上龍さんにはいないですね」
幾原「いないですね。
村上春樹にはいるけど…男性の妄想だから」

上田「前回の講座で、村上春樹作品はほとんど読まれているとのことでしたが、よしもとばななさんの作品もですか?」
幾原「全部じゃないけど読んでるよ。『白河夜船』や『とかげ』…短編が多いかな」

上田「新しい作家はいかがでしょう?」
幾原「最近だと『コンビニ人間』の作者の村田沙耶香さんの『消滅世界』。あれはリアルで怖かったなあ」
上田「そうですか?」
幾原「あれって要するに、”人生ずっとおそ松さん大好きでもいいよね!”って話ですよね?」
上田「樹璃さんみたいな人も出てきます」
幾原「誰かに勧められて読んだんだよね」
上田「私です!」
幾原「そうだった。良かったよ、恐ろしいけど……」

上田「村上龍さんについても伺います。当時はやはりエッジーなところに衝撃を受けられました?」
幾原「村上龍は時代を意識していて…こう言っては失礼だけど、ライブラリとして読んだらわからないんじゃないかな」
藤津「当時性が強いですね」
幾原「それを意識しているからね。その時に読むと、すごく良いんだけど…『半島を出よ』とか。アナーキズムを感じるよね」
藤津「体制なんか蹴っ飛ばしてやる、というような」
幾原「若い人へのアジテーションがあって良かったけど、人によっては合わないんじゃないかな」

藤津「『69 sixty nine』のあとがきでも、アナーキズムを肯定していました」
幾原「”俺はまだ運動をやめてないぜ、若いやつにもアジテーションしていっちょやってやろうぜ”といった檄ですよね。
時代のトピックの突き方がうまいんです」

藤津「一番インパクトがあったのは?」
幾原「(?)と『コインロッカー・ベイビーズ』ですね」
藤津「それもトピックですね」
幾原「(話を要約しつつ)SFで、アナーキーで、革命を起こしてやる…という」
藤津「そう要約されると、めっちゃ『AKIRA』ですね…。
後のいろいろな作品に影響を与えていますね」

幾原「『愛と幻想のファシズム』なんかも、大人から既得権取り戻すという…やはり、運動時代の夢なんですよ」
藤津「リアリズムすぎず、SFっぽいのもポイントですよね」
幾原「ご本人は言わないだろうけど…若い人のルサンチマンを刺激しているんですよね」
幾原「要するに、世間の流れとは真逆のアプローチ。乗れない人たちが支持しているんじゃないかな」
藤津「運動が消えていくなかで、1人で運動を続けている」
幾原「ご本人は言わないだろうけどね。勝手な想像だけど、言いたくないのかも」

幾原「若い人はピンと来ないかもしれないけど、石原慎太郎は大人を仮想敵として描いた初めての人なんです。モラルハザードというか、大人社会への宣戦布告というか。
メディアでの振る舞いも、その名残なんじゃないかな。メディアは騒いだもん勝ちってわかってる。
それは村上龍もそうなんだよね。
そして、この"もっとぶってくれ!"には僕も影響を受けているかも」
藤津「アニメ監督のグラビアとか」
幾原「物議を醸したいんですよ」

5. まとめの質問

藤津「今日は80年代についていろいろと伺ってきましたが、今の幾原監督からみて、80年代から変わったこと、逆に続いていることはなんですか?」
幾原「メディアが完成したのが80年代で、その後はずっとカスタマイズだと思っているんです」

藤津「TVのカタチとか」
幾原「想像になるけど、60〜70年代は、カルチャーが政治に支配されていたんじゃないかな。吉本隆明なんかは、反体制でありメディアのヒーローだった。そこから、糸井(重里)さんが現れて、中心になっていく」

藤津「突然ですが、昭和が終わった日を覚えていますか?」
幾原「覚えてます。東映で働いていた頃で。先輩が『ひみつのアッコちゃん』で演出デビューするってことでTVを見ていたら、最初の5分だけ流れたところで崩御のニュースに変わって……」
藤津「声優さんでもありました。『キテレツ大百科』で、ゲストキャラに出演すると言っていた方がいらしたんですが、放送が飛んで…しかも時事ネタだったので、お蔵入りに。やはり影響は大きかったですね。
幾原監督は、昭和の終わりについて思うところはありますか? 混乱した時代でしたが……」
幾原「昭和…あんまり昭和って感じがないなあ…」

藤津「昭和は、昭和XX年西暦(19XX)年と
表記することが多かったですが、平成は西暦が前に来ることがほとんどになった気がします。
戦中から始まる昭和のストーリーが終わりました」
幾原「昭和は3段階に分けられるけど、僕らはその最後の世代ですね」
藤津「ベルリンの壁も崩壊し、 冷戦終了で時代が変わっていきます」

藤津「幾原監督は、80年代に何が変わって何を得ましたか?」
幾原「いろんなメディアが衰退しては新しく登場して、作り手がポストモダンを求めた時代だった。運動というマスへのテーマがなくなったからね。
戦後の総括をしてはいるけど、若い人はテーマが見つけられないから、模索しながらいろいろな実験が行われた。それを見られたのは良かったかな。
当時の状況は、今と似てるんです。
今は、ネットが登場して、スマホのアプリなんかも出て、装置がリセットされた状態。そこから若い人のフロンティアが生まれていくんじゃないかな。これからいろんなヒーローが出てくるはず。

今思うと、80年代にこんなものは小説じゃない、映画じゃない、カルチャーじゃないって言われながらも、残った人がカルチャーの中心になった。いろんな人が登場して批判され、淘汰される時代。
映像も、装置によってその体験が変わってきている。TVなら、ドキュメンタリー、ドラマ、ニュース…映像を作る側も、装置やデバイスの変化で変わっていく」
藤津「変化の中でテーマを見つけていく」

幾原「カンブリア紀のように、爆発的に変化が起きている。スマホにしても、スマホの中だけでなく、その外側に広がっていく変化があるとおもしろい。僕は、映像には世界を変える装置であってほしい」

◆質疑応答

Q1. 80年代というと、お立ち台やジュリアナのようにバブリーなイメージがあるが、そのあたりと運動からのカルチャーの流れは分断されていたのか?

藤津「あれは90年代ですね」
幾原「ディスコブームは70年代後半にありました。といっても、僕はお立ち台に乗れず、端っこでキーッ!ってやってるタイプで…。

当時の風俗というか、たとえばクリスマスはカップルで高級ホテルに…みたいな流れには乗れなかったですね」
藤津「そのキャッチコピーは83年だそうですよ」
幾原「良い悪いではなく、運動の歌からJ-POPになっていって。そのはじまりが吉田拓郎なんです。運動は連帯を歌ったもので、J-POPは彼氏彼女の歌。その中間が『神田川』。逆に、J-POPの流れの究極はユーミンユーミンも好きだし流れには乗りたかったけど…」
上田「幾原監督は、流行っているものにはアンチに構えてしまうタイプ…?」
幾原「乗りたいんです! 流行っているもの大好きですよ!
90年代だと、グルーブや渋谷系小室哲哉なんかかな。僕はニューウェイブが好きだったので、ズレていたかも。

寺山修司やJ.S.シーザーの影響かも。YMOみたいなテクノと、寺山修司が合体しないかって妄想していて。その果てが初音ミクだと思っているんだけど」

幾原「80年代は本当に忙しくて、きらびやかななかに混ざりたい、でも忙しいと思っているうちに、気づいたらその流れが終わっていて。努力はしてたんですよ」

Q2. 80年代に育まれた価値観は、幾原監督の作品にもいきていますか?

幾原「僕の人生で印象深いイベントは、万博とTVの普及。TVが変化するのを見てきた。
若い人がチャレンジするのを目撃して、世間の喧噪に乗った人もそうでない人もいて、それらを通り過ぎて今思うのは、自分の中に残っているものと、そうでないものがあるんですよね。世間では騒がれたけどピンと来なかったものがある一方で、今も惹きつけられるものもある。そういったものへのファンとしての憧れがありますね。その衝動が僕のものづくりの中心にあり、支えでもあります」
藤津「今日挙がったなかだと、どの作品ですか?」
幾原「TVや映画ならポストモダンかな。
森田監督は、成り立ちや背景が軽やかで、その軽やかさが批判されることも多いけど、その批判までかっこいい」

Q3. 80年代と今とで、アニメの作り方に違いはあるか? 制作面、企画面など

藤津「以前はスポンサーが玩具屋でしたね」
幾原「東映は厳しかった…厳しいところにいたのは良かったと思います」
藤津「厳しくて硬いのに、型破りな演出家ばっかり」
幾原「採用で変なやつを採ろうとするんでせよ。アカデミックな方向で。
以前聞いたんですが、東映は"幅"で採ってるらしいです。僕はどの幅だったのか……」

藤津「スポンサーの違いは大きいですね」
幾原「スポンサーからのオーダーはすごかった。正直、早く他の仕事を見つけてやめいと思ってました。自分には向いてないと」

藤津「製作委員会方式になると、TV局も深く関わってくるようになりました」
幾原「そこは変わりましたね。僕たちの話を聞くのが人たちが90年代から現れたと感じました。世代的なものかもしれない。
メディアもまた変化していて、たとえばテレビ東京はローカル放送でBSもネット配信もなくレンタルだけだったから、それがかえって製作委員会方式を支えました。それで若い人にも企画や制作のチャンスが来ました。それが90年代半ばかな」

幾原「制作の話をすると、作り方自体はセル時代はほとんど変化していません。ただし、
00年代のデジタル化(SD化、HD化)は劇的でした。30年分くらいの変化が一気に起きたと思います。
幾原「実は今、映像デバイスと共に、作り手の環境もものすごい勢いで変化しているんです。デバイスの変化なんか、2、3年先が想像できない」

幾原「今年は、業界人から見ると『君の名は。』『シンゴジラ』『この世界の片隅に』といった、TV局が中心でない作品のヒットが続いています。
これは、視聴者が(作品を)享受するときのフィーリングが変わってきているからのような気がします。ポップカルチャーの意味は、つながることですから」

幾原「現在、かつてないほどパッケージビジネスは困窮しています。作品を作るためのお金が集まらないので、これからの人はより困難になるかもしれない。
一方で、音楽で言うと、CDは売れなくても、みんな音楽自体はかつてないほどよく聞いている。そういう意味で、表現したい人にとっては良い時代だと思います」

シン・ゴジラ 女性限定鑑賞会議 庵野監督ネタまとめ

シン・ゴジラ 女性限定鑑賞会議に行ってきました。

いわゆる応援上映でしたが、凝固剤注入時に一気コールされるゴジラは気の毒でしたね。ヤシオリ作戦はアルハラだったのか。

あと、核分裂によるエネルギー生成に思い当たった尾頭に対して安田が放った「冗談っぽいです」に対して「あんたバカァ?」はなかなか高得点だと思いました。


上映会自体は
東宝宣伝部あいさつ→上映→舞台挨拶(フリートーク後質疑応答)
という流れ。
そのなかで、舞台挨拶(とくに質疑応答)でキャッチできた庵野監督ネタをまとめました。

 

(1)尾頭ヒロミ役 市川実日子さんから

・終始可愛らしかったです(=とくになし)

 

(2)泉修一役 松尾諭さんから

・ペットボトルの水を渡すシーンは台本にはなかった。当日差し込みで入れられたもので、そもそも矢口が怒るシーンすらなかった。差し込みでは「水を差し出す」と書かれており、泉流に解釈した松尾さんが長谷川さんに投げて渡すと、長谷川さんにペットボトルが直撃、より怒らせる結果に。

 

(3)間邦夫役 塚本晋也さんから

・とある台詞について、オーダー通り3パターンほど大興奮する演技した後で「これから本番なので普通にやってください」と言われた。両極端なオーダーをすることでちょうど良い塩梅にもっていく演出術。

・小さい声の役だったので拾えないくらい小さい声で演技をしたところアフレコになった。

 

(4)事務員のおばさん役 片桐はいりさんから

・役名はなかったが、庵野監督に「あなたの笑顔にすべてがかかっている」と言われた。

・台本には台詞もなく、ト書きで「絶妙なタイミングでお茶を出す」とだけ書かれていた。

・結局、撮影直前になって台詞が決まり、3パターンほど撮影した。

 


庵野監督ネタはこんなところです。

登壇者のコスプレあり生セリフありで楽しい回でしたが、バミリを完全に無視して松尾さん側にどんどん寄っていく市川さんはかわいい!

現場からは以上です。

戦コレオンリーお疲れさまでした

戦コレオンリーに参加された皆さま、滅茶苦茶な暑さのなか本当にお疲れさまでした。
初サークル参加で右往左往しましたが、多くの方にご協力いただき、大きなトラブルなく閉会を迎えることができました。ありがとうございました。


◆頒布物のこと

「秀吉寿司」手にとっていただいた方、立ち読みしていただいた方、本当にありがとうございました。読者の方おひとりにつき1ニヤリが目標なので、達成できているとうれしいです。

そして、部数を完全に読み間違えまして、立ち寄っていただいた皆様にまったく行き届かず…具体的には開場後10分で終わりました。大変ご迷惑おかけしました。
初参加は20部も刷ったら多い方とか言ったやつ出てこいよ!

こちら再販予定ですので、詳細決まり次第またご報告します(最速で夏コミ3日目想定)。できれば、挿絵とか追加したバージョンアップとしてお出ししたく。よろしくお願いいたします。

また、全員半額シールかと思われた寿司化武将ですが、こちらも無事全員お持ち帰りいただき、大変ありがたいことです。
SSR秀吉(ただのシャリ)とSSR利休(ただの湯呑み)がよく出ました。

そして、帰宅してから誤植に気づきまして。
二貫目のコメントで家康ちゃんEX回が25話になっていますが、正しくは24話でした。釣りキチ回がなくなってしまう…失礼いたしました。


◆イベント当日のこと

主催の皆さまのご尽力もあり、楽しいイベントになりました。ありがとうございました。

私は戦コレ超後発組なので(しかもアニメのみ)正直どんなもんかなあと思っていたのですが、戦コレ舐めてました。
本当に2012年放映作品かという盛り上がりでしたし、アットホームなのに内輪感がありすぎず、とても居心地良く過ごせました。誰しもが戦コレの話ばかりしている空間すごい…。

まだすべての戦利品を拝んでいないのですが、現状どれもこれも二塁打以上という感じで大変ホクホクしています。原作が「各話が薄い繋がりを持ったオムニバス形式」ということで、余白が大きいぶん二次創作向きなのかも。
そしてそれ以上に、(少なくとも私は)ファン各位の持つ文脈との相性が大変良く、帰ってから「もっといろんな人といっぱい会話してくるべきだった…」と後悔しています。次こそは。というか次お願いします、なにとぞ。


◆今後のこと

元々、サークル活動は戦コレオンリーに記念参加したら1回限りで終了するつもりだったのですが、クリスタとも仲良くなってきたし、諸々勝手もわかってきたので、もう少し続けようかと思っています。

「寿司2(2クール目武将メイン)」「寿司総集編(全武将コンプリート)」という野望はあるのですが、戦コレオンリーでしか出さないとなると完結までに数年かかる可能性が高いので、コンスタントに出せるように検討中です。総集編こそはちゃんと印刷所に頼みたい。

ということで、もう少しサークル「羽二重庵」にお付き合いいただけるとうれしいです。拙いサークル主ではありますが、引き続きよろしくお願いいたします。

戦コレオンリー(サンクリ2016夏)に参加します

7/3(日)に開催される戦コレオンリー「これも戦国ぅ!」に参加します。
スペースはA36b。オンリーの一覧表でやたら上の方に表示されており、緊張します。

頒布物詳細は以下のとおり(6/30更新)。

 

◆頒布物概要

秀吉寿司
※モノクロ20p・コピー本

 

◆お値段

100円

 

◆表紙と見本

f:id:huvchie:20160630020015j:plainf:id:huvchie:20160630020041j:plain

 

 

◆内容

秀吉が寿司を握ります。
1期のメインキャラはほぼ出てきます。
各話のプチ感想つき。

 

◆その他

当日は寿司化した武将カードなどを描いたりしていますのでご自由にお持ちください。間に合えばペーパーもあります。

 

 

申し込みの時点では普通にオールキャラギャグ本想定だったのです。しかし、8話関連のネタを考えているときに突然秀吉が寿司を握り始めてしまったので、流れに身を任せることにしました。
好きな寿司ネタは白身魚全般ですが、最近は光物も好きです。

当日はよろしくお願いいたします~。

朝日カルチャーセンター「万博から世紀末まで‐僕はこんな作品を見てきた。」メモ(後編)

前回のまとめ:幾原監督の自己形成に影響を与えた作品群の話を聞きに来たと思っていたら、握手会に参加していた…自分でも何を言っているのかわからないがなんちゃらかんちゃら。

 

前半に引き続き、FCイベントの様子をまとm…別にまとめてなかった。
例によって精度は微妙で、抜け漏れミス勘違い聞き間違いがあります。
あとで見出しをつけたいです。このブログはリアルタイムで進化を続けます。
がんばります。

 

ゲスト:幾原邦彦
司会進行:藤津亮太氏、上田麻由子氏(以下敬称略)

 

※実際のイベントでは、話に上がった各作品について、藤津さんの丁寧な解説がついていました。が、そこは参加者のみの特権ということで何卒。藤津さん、本当に良い仕事をありがとうございました!


2. 1970年代から1980年代へ

上田:幾原監督作品には、学園がよくでてきますよね。学園を舞台に選ぶ理由は、当時の生きづらさと関係していますか?

幾原:うーん、僕にとって、学校は居心地が悪い場所だったんです。中高はとくに。今思うと、空気を読めなかったからですね…。

上田:馴染めば生きられるけど、個性が埋もれてしまう…みたいな?

幾原:昔の学校と今の学校はちがうしね。80年代は荒れていたし。学校が荒れているといっても、昔は学生運動だったけど、当時は、校内暴力が話題になった時期だった。政治的にではなく。社会状況がややちがったし。男女雇用機会均等法とかもなかったし、大人になってからの選択肢も狭かった。最良でないルートは不幸で恐ろしいことだと教えこまれていたんです。
あとは、自分がメディアでどうこうできるとは思えなかったですね。今みたいに情報もないし、想像がつかない。メディア業界の状態もちがったしね。当時は政治的な意識がないとやれない世界だった。アウトロー的な気持ちがないと戦えない。
あまり詳しくはないですが、糸井重里の登場あたりで変わったんじゃないでしょうか?彼は、運動後の最初のメディアスター。それまでは各メディアが分離していましたが、ここからクロスメディアが始まっていったんです。

藤津:糸井さんのコピーライティングはインパクトがありましたか?

幾原:ありましたね。広告としての現代アートやグラフィックという言葉が登場しました。それまでは一握りの画家くらいしか食えなかったのが、広告ブームによって現代絵画が注目を集めるようになった。アングラがサブカルとして開花した時代。

上田:影響を受けた具体的な作品は?

幾原:当時、そういう情報はぴあやプレイガイドジャーナルから得ていたんです。すべてそこに書かれていたんですよ。そこで過去の映画やATG映画をみた。寺田修司なんかもそのタイミングでみて、衝撃を受けた。世間は偶然の好景気なのに、その流れとまったくちがっていたから。ビデオとかなかったから、10年前のものをライブラリとして見ていたんです。映画を見るときは、名画座や映画祭が頼りだった。そのぶん、映画1本の体験がものすごく大きかったんです。

藤津:一期一会でしたね。

幾原:「田園に死す」とかね。放映時は子供だったので、ついに見た!という感じだった。大学学園祭の映研でみたんですよ。誰も見てない映画を見てる、俺インテリ!俺すごい!みたいな。

藤津:埋まり具合はどうでした?

幾原:半分くらいかな。でも、高校生は俺くらいだ!って。評価前提の退屈なものが多い中で、全部口で言うスタイルのわかりやすい映画だった。結局、寺山氏は運動に興味があったのではなく、それを利用していたんじゃないかな。「書を捨てよ町へ出よう」は浅間前だから、運動は続いていくのかという雰囲気だったが、田園〜の時には、運動は過去のこととして追体験している。

藤津:しびれました?

幾原:運動の総括ですよね。運動のヒーローやメディアの虚構を描いている。田園〜の美術監督粟津潔氏)が自分の大学の先生だつたんです。書籍カバーの初代デザイナー(装丁家)。装丁家は、当時一番目立つグラフィックデザイナーでした。粟津さんがいなければ自分はなかったですね。
田園〜のテーマはわからなかったですが、映像としてはすごいと思いました。

上田:少女漫画は読まれましたか?

幾原:最初に読んだのは、「トーマの心臓萩尾望都)」か、「おでんぐつぐつ(弓月光)」のどちらか。当時は(70年代前半)は、「がきデカ山上たつひこ)」や「トイレット博士とりいかずよし)」が良かった。楳図かずおとか持ってきてクラスメイトの女の子と交換していたが、少女漫画はデリケートなことが書いてあるなと。「風と木の詩竹宮惠子)」とか読みました。
一時期同居していた年が近い叔父が、彼女の別冊マーガレットを持って帰っていて。「いつもぽけっとにショパン」を読んで衝撃を受けました。青年誌はなかった時代です。ビッグコミックくらいかな。少女漫画って恋愛だけかと思っていたら、母との確執の話だった。少女漫画の表現の幅広さのディープさ驚きました。少年漫画は殴り合いじゃないですか(笑)少年漫画は文学的だなあと。少女漫画を体験した時期は、今の感性をつくった時期でもありました。少女漫画を読まなかったら、今の自分はないですね。

上田:田園〜はテーマはよくわからなかったということでしたが、僕探しの話とも言えるかなと思います。こういったテーマが増えた時代ではないでしょうか?

幾原:寺山氏の映像(映画やドラマ)は、運動とズレていて、僕探しの話なんですよね。今思うと氏も浮いてたんだ。彼は、運動前後であまり変わっていないんです。一方で、運動直撃世代に僕探しを突きつけたのが、村上春樹では。
ノルウェイの森」までは、変な小説を書く人という印象でした。ファンタジーなのかなんなのか…。
村上春樹作品は読んでいましたが、はじめてちゃんと読んだのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。ライブラリとして読みましたね。よくわからなかったですが…。 評論くさいのであまり言いたくないんですが、彼も運動世代なのかも。あんなに熱狂していた自分たちはどうなったのか、あの熱狂は夢だったのか?では、今の自分と昔の自分と、どちらが夢だったのか?「羊をめぐる冒険」などは一緒に熱狂していた友を探している、それによって本当の自分を思い出すというストーリー。一方で、世界の終わり〜は、自分を探していく話ですね。そもそも、村上春樹作品は現世とあの世と往復するような話が多い。

上田:世界の終わり〜はいろいろな作品に影響したといわれますが、幾原監督も影響を受けましたか?

幾原:直接的な影響はあまりないんじゃないでしょうか。
ピングドラムのときは、ちょうど「アンダーグラウンド」が出た時期でした。これを読んだときは、衝撃を受けましたね。この作品では、自覚的にフィクションの力を試そうとしてる。村上さんが探ろうとしているのは、同時代感や共通認識を確認するという作業なんです。今までは無意識に行っていたであろう"読み手との共感"を獲得しにいった。自分たちとしては、運動は歴史でしかないんです。一方で、地下鉄サリン事件は、自分たちの世代がしたこと。終末ブームに超能力だとか言っていた自分たちにとって、政治運動にかわって新しく熱狂できるもの。そして、サブカルとして若い人の遊びだと思っていたもの。そうしたものが、とても深いドグマをもっていた。しかも、それがとても暗い形で世の中にでてしまった。後ろめたいことでした。
サブカルといって持て囃しておきながら、漫画やアニメといった、自分たちが好きでピュアだと思っていたものが汚されたような気がしたんです。しかも、それらについてメディアがまったく語らず、光を当てず、むしろ嫌悪を伴う語り方しかされない…そんな空気がでてきたのが気になっていました。

藤津:運動世代は自分達の熱を作品に反映してきたのに、95年のことは誰も語らなかった。

幾原:村上春樹はそこを語ろうとしたのがすごい。自分世代の幼児性から目を背けずに、それを語ろうとしている。読者に届けようとしている。

藤津:幾原監督自身は作品をつくるときに、そういう意識がないといけないといった感覚はありますか?

幾原:寺山修司の影響からか、そういうところはありますね。はじめは、寺山修司のいう「同時代体験」の意味がわからなかったんです。フィクションは同時代体験として消費されないと意味がないということが、村上春樹の登場によってわかるようになってきた。

上田:「コインロッカー・ベイビーズ」は?

幾原:村上春樹と比べると、村上龍のほうが現代的でエッジィ。だが、猛烈に古くなる。その時代には衝撃があるんですよ。
聞いたことなんですが、子供捨て自体は、戦後すでに社会問題だったそうです。けれど、コインロッカーは、それ自体が高度経済成長期を象徴する近代的な装置。そのなかに、いまだに子供が捨てられるというギャップの衝撃がありますね。

上田:幾原監督作品ファンとしては、双子モチーフが気になります。

幾原:本来同じ境遇である2人に変化が訪れて、立場が逆転していく話には惹かれますね。

上田:関係性が変わっていくという点では、「戦場のメリークリスマス」もそうですね。
幾原:この作品はすごいですよね。当時はよくわからなかったけど、大島渚は自分の世代を統括している。二・二六事件で死に損なったという設定は、大島渚の自己を反映しています。自分は運動で死ぬつもりだったが、死に損なった。が、デビッド・ボウイに一目惚れして、キスされて失神してしまう(笑)西洋文化に触れて翻弄されるというのもメタファですよね。夢のような作品ではあるけど、西洋の人からみるとどうなんでしょうね?デビッド・ボウイにキスされて失神する日本人とは…。まあ、大島渚がそれだけピュアで本気なんでしょうね。
この映画では西洋に対するあこがれがみられますが、これ以降の高度経済成長期からはその機運が消えていく。

上田:1年前にはブレードランナーが公開されました。

幾原:あの映画では、欧米が描く未来都市にソニーとかの広告が貼ってあって、欧米が日本を意識している!と驚きましたね。アメリカだとアジアは一括りですし。

藤津:原作(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?フィリップ・K・ディック)からは離れているので、チャイナタウンのイメージでしょうね。

幾原:高校生のとき、タイトルにひかれて原作を読んで衝撃を受けました。意味は分からないが、テクノロジの描写はすごいなと。でも、今のほうがすごさがわかる。インターネットの出現などを予言していますからね。

上田:共感ボックスなんかはおもしろい装置ですよね。

幾原:キリスト教的な考えですよね。そういうものでもないと気持ちが落ち着かないと。原罪を毎日意識しないといけないくらい不安定な社会なんです。
この社会では、人間とアンドロイドを区別するために、フォークト・カンプフテスト(感情移入テスト)をしています。人間とアンドロイドの差は、他者に感情移入するかどうかで判定されるんですね。
また、僕は映画が原作を超えたと思っている点があるんです。それは、原作では「人工物が人を超えることもあるかもね」という終わり方だが、映画では「人工物がヒトと同じところまで到達する」。
ディックの別作品では「日本はオリジナルのものをつくってこなかった。中国のものをつくり直してるが、それは本物を超えている。イミテーションがオリジナルを超えることもある」という話をしています。
では、我々は何を拠り所にすれば良いのか? インターネットやSNSでは、本物かどうかではなく、インパクトで選別されている。今、ディックの考えていた世界に近づいているのかもしれません。

◆3. まとめの質問

藤津:時代と表現者の関係について伺います。やはり、今日のお話を伺って、時代背景は表現者にとって意味があるなと。時代の中で書かれたものには思いの一部分が乗っていて、表現者はこの思いから逃れられず、また作品にとっても不可欠なのでしょうか?

幾原:最近は、さらにそうなっているのでは。バブルと高度経済成長期だった80年代にはアキラが出てきて、倒れないはずのビルがガンガン倒れていく。高度経済成長期に怪獣が暴れてビルが倒れるのは、あくまでファンタジーでした。それが、95年の事件や震災によって、みんなの意識が変わったんです。ビルの倒壊はリアルになった。
昔、自分たちがうんちくを語れるコミュニティに入るには、ぴあのような入り口が必要でしたが、今は同時変化的になってきています。
また、昔のエンタメは夢やドグマを吹き出すものでしたが、今はエンタメが自分たちの気持ちと近いところにあります。
今だと、壁なんかが頻出のテーマですよね。トランプ候補が壁を作ると言い出したり、とかイスラエル(の分離壁)なんかもそうです。そんななかで、アニメなんかのフィクションには、壁のビジュアルが登場している。これにはきっと意味がある。

藤津:ユリ熊嵐にも壁が出てきますよね。あの壁を入れたのは、ロジックから?感覚から?

幾原:あれは狙っていれました。乗ってかないとと思って(笑)

藤津:意味があるものだと。

幾原:壁があったほうがいいのか、ないほうがいいのか、その向こうからは何が入ってくるのか。
90年ごろから、ゲートという概念が流行りましたよね。異次元・異世界へつながるゲート。これは、グローバル化で物流により人々の意識が、変化していることを表現している。

藤津:現実をダイレクトに扱わずにメタファとして表現するには、アニメが向いているのかもしれませんね。

幾原:アニメはそういうことをしてきましたらからね。

藤津:時代性は意識しますか?

幾原:しますね。たとえば、ヤマトは戦争の追体験ですよね。一方で、見てる側には閉塞感があった。地球を救うという使命、生きている意味がある世界は、ロマンチックだった。
今ではいろいろな選択肢がありますが、ヤマトにおける"使命がある喜び"は伝わってきた。作り手である自分は、寂しいと思っていたんです。運動人をうらやましいと。人々と思いを共有していて、しかも政治の話をしてモテたなんて(笑)
それが高度経済成長期になって、いい服だのクルマだの、マニアックな自分には辛い時代だった(笑)テーマがなかったんです。破壊したいといったテーマが出てきたのが80~90年代あたりで、それが点火したのが95年。最近だと、SNSの登場で意識が変わってきてるなと思いますね。

藤津:じゃあピングドラムは正面からいったんですね。

幾原:メディアに干されたからね(笑)
真面目にやろうと。そのままだと、企画が通らなかったりしましたしね。

藤津:残響のテロル監督の渡辺信一郎さんは、運動への決着を意識されているようですね。背負ってるのかもしれない。

幾原:どうですかね。太陽を〜なんかは、古くなったかもね。95年のように、現実でカタストロフィがあると、夢における破壊が意味をもたなくなってしまう。
ピングドラムなんかは、311でかなり揺さぶられました。破壊衝動を扱うのが、不謹慎だと思った。商業作品として発表することに、いやらしさ、後ろめたさを覚えた。だから、ピングドラムは途中で大転換しています。当初は、もっとピカレスクな感じでした。負の破壊衝動のような、メディアが扱わないことに対するジレンマを払拭してやると思っていた…そんなタイミングで311があったんです。

藤津:それを聞いて納得しました。ピングドラムでは、途中で事件の扱いが変わって方向転換していますよね。


質疑応答

Q. 芸術関係に進みたいが(略)どういうことを意識していけばよいか?

幾原:自分からはアドバイスはできない。僕は、若い人の世界からはズレてしまっているんです。僕らはテレビの時代で、マス的に見せていっていました。でも、今は僕らが最先端ではない。そんななかで、これからどうしたら現代アートをみんなに見てもらえるようになるのかはわからないです。昔、糸井重里がテレビをうまくつかんだようなことができれば。

藤津:岡本太郎もそうですね。

幾原:これからテレビがどうなるかはわかりません。自分が意識しているけど実践できなくてジレンマを抱えていることがあって。人に言われたことなんですが、今までのメディアは、大々的に告知されて、上から降りてくるものだった。今は、そういうものも多いけど、むしろ下から上がってきています。その上がる方法や装置─今ならSNSなんかだと思いますが─それもいつまでからわからない。

藤津:時代を反映するものとしては幸福感も挙げられますが…そのへんはいかがでしょうか?

幾原:僕はイーストウッドが好きなんです。彼は、最新作(アメリカンスナイパー)で、ついに自分がやってきたことに気づいたんです。
彼はマカロニウェスタンから入って、刑事モノをやって、西部劇をやって…晩年になって、やっと、全部銃だと気づいたんですよ。彼の作品は、撃つか撃たないかに集約されてきた。その時代によってモチーフやドラマは変わりますが、中心にはいつも銃の有無や撃つかどうかがあるんです。
彼は、アメリカ人は銃を持つのが宿命だと思っているのかもしれません。アイデンティティの根幹としてね。絶対に銃を手放さないのがアメリカ人の原罪で、その運命をかいたのがアメリカンスナイパーではないでしょうか。銃規制に関する政治的なテーマは実は後付けで、アメリカ人としてのアイデンティティを追求した結果、アメリカンスナイパーに行き着いたのかも。

藤津:時代は、自分の外側だけではなく内側にもあるんですね。

幾原:世代のちがいはあるにせよ、僕らは日本に暮らしているということからは逃れられない。それがどういうことなのかを追求するのもテーマなのでは。戦中戦後も日本人であるということにはかわりはないんです。

Q. 岡本喜八監督の影響はありますか?また、ユリ熊嵐の「透明な嵐」といった独特の言語感覚はどこから来ましたか?

幾原:岡本さんはあんまり見てないかも。ライブラリとしては見ていますけどね。
また、セリフに関しては考えますね。

藤津:メモをとったり?

幾原:思いついたら、スマホのメモ帳に書くんです。早くすりつぶさないと、とかね。今のスマホには、2009年くらいからのものが残ってますね。

藤津:見直したりしますか?

幾原:見直すというか、癖ですね。

藤津:今回の企画について監督に話したら、影響を受けた作品リストのメモがパッと来たんですよ。

幾原:あれも、わざわざ書いたのではなく、メモを送ったんです。ネットをザッピングしながらメモするのがいいですね。

Q. 幾原監督作品が長く愛されるのはなぜでしょうか?

幾原:うーん、長く愛される作品を狙ってつくるのは無理ですね。高い評価があっても、次の作品がつくれないとね(笑)評論や評価は、あまり気にしたくないですね。その壇に乗ることで、足を取られたくない。ATG映画とか、評価のための映画がトラウマなのかも。もちろん、褒められたらすごくうれしいけどね。

藤津:普遍性は意識されますか?

幾原:わからないですね。意識してできるのかな…?そうとしかやれないので、癖なのかも。僕にラッキーがあるとしたら、その作品(のテーマ)が、たまたま今まで続いてる空気なんだろうな。
ライブラリ化された作品が求められるのは、昔の話だと思っていました。少なくとも僕らの世代は狙ってはできないですね。

藤津:時代を超えるかどうかは、読者次第かもしれないですね。

幾原:メディアの状況もありますね。ビデオとか配信とか、僕らの時代とはちがいますから。今は、リアルタイムのものと、ライブラリを並列で見ますよね。

 

わたしのメモは以上!以上です!

読破された方、イベントに参加された方、わたし、お疲れさまでした!


2016/04/25追記:岡本喜八監督のお名前に誤りがあったため、修正いたしました。失礼いたしました。

朝日カルチャーセンター「万博から世紀末まで‐僕はこんな作品を見てきた。」メモ(前編)

幾原監督ファンクラブの皆様、お疲れさまでした。

藤津氏による最高の司会進行により、メモを取る手が攣るほど饒舌な幾原監督が見られる大変貴重な機会でしたね。

120人近くの大入りで大変良い体験でした。

 

例によってメモをとりましたので、アップします。例によって精度は微妙で、抜け漏れミス勘違い聞き間違いがあります。

 

これはレポートなのか?メモなのか?
テーブルの上のお菓子がパンなのかパイなのかは食べた人しかわからないように、これがレポートなのかメモなのかは、読んだ人にしかわかりません。

 

ゲスト:幾原邦彦
司会進行:藤津亮太氏、上田麻由子氏(以下敬称略)


※実際のイベントでは、話に上がった各作品について、藤津さんによる丁寧な解説がついていました。が、そこは参加者のみの特権ということで何卒。藤津さん、本当に良い仕事をありがとうございました! 


◆イントロ

幾原:(挨拶)今日は自分の作品ではなく、自分の世代が体験してきたカルチャーを紹介。マニアックな話などしていければと思います。

藤津:まず、幾原監督にお話を聞こうと思った動機についてお話します。
ユリ熊嵐のイベント用パンフレットのインタビューで、作品は時代を映す(地球へ…など)という話が出たのを覚えていたんです。
また、他のプロデューサーと、見ていた作品・見なかった作品は年齢によってちがうという話もしていて、監督がどんなものを見て自己形成してきたのかを聞きたいと考えました。

 

1. 1960年代から1970年代へ


藤津:まずは、生まれてからのメディア体験について伺います。生まれてから、見て・覚えている映画やTVはありますか?

幾原:一番古いのはキャプテンウルトラ小林昭二氏時代)ですかね。次はウルトラセブンかな。アンクルトリスのアニメーションだった、トリスのCMも覚えています。僕は最初からTVがある世代でした。爆発的にTVが普及し終わって、変わっていく時代が子供時代。映像メディアが変遷していく時期ですね。50年代は映画が主流で、60年代にTVが普及するに従って、そちらにに移行していきました。映画が斜陽になったというよりは、楽しみ方が変わっていく。
50年代のTVはドラマが中心でした(ニュースはあるけど、報告メイン)。映画とTVの差は、同時代性ですね。TVは、そのとき起こったことを伝えられる。

藤津:映画は公開までに時間がかかります。一方で、TVはスポーツ中継などが人気で広がっていき、リアルタイムがあたりまえになりました。

幾原:見たTVの話を学校でするというのも、今までとはちがう体験ですね。

藤津:TVはみんなの共通体験になりやすいですね。小学校で楽しみだった番組は?

幾原:普通普通。ブームもあって、怪獣好きだったので。仮面ライダーとか。あと大きいこととしては、小学校までは白黒だったテレビが、70年代になってカラーテレビに。爆発的に普及しました。

藤津:初任給の10倍くらいの値段でしたね。カラーテレビは70年をすぎてから普及してますね。75年で90%。

幾原:急激な変化でしたね。今思うと。

藤津:映画はどうでしたか?

幾原:最初に見た作品は覚えてないですが…
アニメ:空飛ぶゆうれい船(1969年7月20日公開。東映まんがまつり)
実写:怪獣総進撃(1968年8月1日公開。東宝チャンピオンまつり)

藤津:徳島でご覧になったんですか?

幾原:ちがいますね。父の転勤の都合で、いろいろ地方をまわっていました。各地の駅前映画館などで見ましたね。70年代には減少していましたが…。

藤津:鮮烈に覚えていることはありますか?

幾原:まんがまつり、チャンピオンまつり以外だと、大人に連れて行かれずに子供だけで入った初めての映画は「日本沈没」でした。特撮があって子どもたちの間で話題になっていて。話は超アダルトで話がわかりませんでしたが(笑)

藤津:終末ブームでしたね。

幾原:みんなの意識から、「戦後」が薄くなってきた時期にあって、「日本沈没」なんかは、戦後を思い出させる映像でした。

藤津:ノストラダムスは?

幾原:流行りましたね。

藤津:わくわくしました?それとも、未来を悲観しました?

幾原:子供の頃は、99年は遠いと思っていました。そして、自分には間違いなく子供がいると思っていた…終末が来ることを子供になんて伝えようか…と思っていましたが、大きく予想と違いました。
ゴジラヘドラなんかは、公害問題の最中で出てきた作品でしたね。今は中国の郊外なんかがいわれてますが、日本があんな感じだったんです。川なんか汚かったですね。

藤津:60年代は公害問題が多かったですね。そんな流れから、万博のテーマは進歩と調和に決まりました。

幾原:ゴジラなんかは公害ネタですよね。トラックに子供がはねられて亡くなったりしていました。

藤津:合唱のチコタン - Wikipediaって知ってますか?交通戦争がテーマで、チコタンは最後は交通事故で死んでしまうんですが。そういうことに社会的関心があった時代なんです。監督は公害の実感はありました?

幾原:今と比べると、自分のすぐそばをトラックがすりぬけていってましたね。すごく危なかったです。

藤津:中学時代はどうでしたか?

幾原:ヤマトがでてきたころですね。そこまではテレビ漫画と言われていて、アニメという言葉がなかった。手塚さんはアニメーションと言っていましたが「アニメ」が認知されるようになったのはヤマトですね。推測ですが、オリジナル作品だったので「アニメーション」と呼ぶのに抵抗があったのでは。

藤津:正解ですね。ヤマトのPは宣伝の戦略上、子供向けではないことを意識して「アニメ」という言葉で売り出そうとしたそうです。

幾原:それまではアニメは子供向けのもので、中学になったら見なかったんですよ。あしたのジョーなんかはスポ根だったし、ちょっとちがう文脈ですね。いわゆるオタクが観測されたのもここからでは。
ヤマトを見て、まだ漫画やアニメを見られる!見ていいんだ!と感じた。当時はヤマトかヤマト以外かというくらいだったんですよ。作品のディティールについて考えるようになったのもそこからで、マニアックに映画を見るようになった。
また、小6で始めてみた映画がジョーズでした。それまで外国映画には興味がなかったんです。宇宙船や怪獣が出てこないと映画体験ではないなと。そこにきて、ジョーズは怪獣がでてくるわけです。画期的な映画だったし、スケールの大きさにびっくりした。一般的にも、これを着にハリウッド映画が流行るようになりました。

藤津:そこからスターウォーズがでてきますね。

幾原:宇宙船ですね。

藤津:映像の仕事については意識されていましたか?

幾原:まあ、怪獣映画を撮ったら、毎日ぬい見られるじゃん!というあこがれはありましたね。でも、自分がその仕事につけるというリアリティはなかったです。

藤津:万博の影響は?

幾原:大きかったですね。自分にとって、オリンピックは過去のイベントですが、万博は世間を席巻していた。メディアジャックくらいの勢いでした。

藤津:国家をあげてですからね。

幾原:当時はディズニーランドなんかもなかったですし。テクノロジーをあつめたパビリオンは初でした。
あのパビリオンは、当時の子供の本に載っている未来都市の造形に近かった。そういう狙いのデザインだったらしいですしね。高度成長とイメージがリンクしています。

藤津:幾原監督にとっての時代の転換点はいつですか?

幾原:60年代後半のヌーベルバーグ運動で、映画が斜陽化しました。70年代は、学生運動で不穏な状況。60年代後半には、映画は大衆への娯楽だけではなく、若い人がコミュニティを形成するための場所になった。自分はウルトラセブンしか見てませんでしたけどね。
学生運動は急速に終わりました。経済も成長もあり、良い生活をするのにいっぱいいっぱいだった。想像ですが、いわゆるサブカルという言葉が登場したのではこの頃なのかもしれませんね。カルチャーではなく装置だった映画や演劇が、運動と関係なく、装置そのものを楽しむというふうに捉え方が変わった。同じ映画でも、サブカルとして評価しているものと、60年代のものは意味合いが違うんです。

藤津:政治ですからね。(略)監督に挙げていただいた作品が、「太陽を盗んだ男」。

幾原:監督やスタッフが運動の人だった。アイドルに、自分たちの意見を代弁させようとしたんです。今度こそ運動で勝つんだ!という、世代の総括を娯楽でやっている。

藤津:時代の変化がつまった作品ですね。

幾原:ロマンチックですよね。娯楽だけの映画やマニアックな映画ともちがう。
60年代は、評論としての作品が出てくるんです。語るために、おもしろくないものをあえて作る。この作品はなんか難しいけど、徳があるのでは?みたいな…。そんな流れのなかで、あえてエンタメをつくったのが太陽を盗んだ男

藤津:日本映画に苦手意識を持つ人の多くは、この年代の印象が強いのかもしれないですね。

幾原:ヌーベルバーグによって、若い人とメディアの意識が一体化した。それが70年代でズレていって、二極化した。
角川映画が登場したのがこの時代。角川映画のすごさも説明しづらいが…一番の違いは、テレビとの関係性です。これまでの映画は、テレビを敵として触れないようにしていた。しかし、角川映画は、タイアップなどでテレビを利用するようになった。横溝監督は、ビジュアルが土着的なんです。ビルが立ち並ぶ高度経済成長期にも、みんなが過去(戦中戦後)のものだと思っていた家族のしがらみがあるということを思い出させる。メディアは戦中戦後をひきずっていて、総括して語りたがっているのでは。

藤津:ヤマトのPなんかは戦中派。40代くらいになった彼らが、戦争というファクターを入れたがりますね。

幾原:山口百恵のドラマでもマンションからの引き上げとかあったけど、今思うと、あれはメディアマンが視聴者と繋がれるテーマだった。戦争がなんだったのかということは、メディアにとって大事なテーマなんです。たぶん、視聴者からのリアクションもあったでしょうし。そういう点では、太陽を盗んだ男は安保戦争をテーマにした最初の作品ですね。

藤津:みんなの共通体験から、個人的な話に変わっていく。

幾原:個人的には、少女漫画のベルばらはフランス革命の話ですよね。これは推測ですが、池田さんは運動の世代ではないでしょうか?60年代に学生であれば、運動を身近に見てたのでは。男装をし、革命することでその決着を漫画で付けようとしたのではないでしょうか?現実がメタファーになっているのではないかという解釈をしてますね。
※原作者回想録の裏付けあり

ヤマトガンダム時代としては、「地球へ…」もあげられます。こちらは、学生運動とはちがって初代金八先生の時代。偏差値教育が導入されたころです。学生運動が終わって、社会を攻撃していた子供が、大人に管理されて仕分けされる世界になった。選別される管理社会を舞台に学生運動のエネルギーを転写しているのではないでしょうか?革命のロマンの話ですね。

 

なんかほんのりウテナっぽいキーワードが出てきたところで後編へつづく…